初公開!『宝山寺―悪所「原風景」の探訪』ノーカット版

「し、しぬう」
 彼女の喘ぎ声が部屋いっぱいに広がる。もちろん、「死、死ぬう」の意味に解釈すべきなのだろう。それにしても、ここで「死ぬう」とは、いくらなんでもあまりに出来過ぎた表現じゃないか…。
 関西には「新地」と呼ばれる「ちょんの間」がいくつか存在する。表向きは料亭や旅館なのだが、実態は遊郭のDNAを濃厚に受け継ぐ現代の「悪所」である。最大規模を誇るのが飛田新地、これに次ぐのが松島新地、信太山新地、今里新地、滝井新地。こうした新地はそこに足を踏み入れたならば、そこが「ちょんの間」であることがすぐ分かる。顔見世といって女性たちが玄関に出ていなくとも、いわゆる「やりて婆あ」が「お兄さん!
お兄さん!」と声をかけてくるからだ。しかし、ここではそんな威勢の良い声は全くかからない。そうかと言って閑散としているわけではない。熱心な参拝客で賑わっている。ここは一見すると門前町であればどこでも見かけるような参道に並ぶ日本旅館なのである。そう、参道の石段を上り、鳥居をくぐれば宝山寺なのである。宝山寺生駒山の中腹にある。言うまでもなく生駒山は現代に至るも数多くの小さな神々がなおも生成を続ける「聖地」として知られている。
生駒山は『日本書紀』に「胆駒山」として登場して来る。青い油笠を着た唐人に似た者が葛城山から龍に乗って飛び立ち大空を駆けて胆駒山に隠れたという逸話が記されているのだ。「午の時にいたりて住吉の松のいただきの上より西に向かい馳せ去りぬ」と。それ以来、生駒山は神々の棲む山として人々の信仰を集める「聖地」の役割を果して来たのである。その中腹に「現世利益の聖天さん」の愛称で親しまれる宝山寺があり、男たちを「昇天」させることを目的とする宝山寺新地がひっそりと営業している。六月のある土曜日、私は宝山寺新地を訪れた。
 丘陵性の生駒山地は大和盆地と大阪平野を隔てている。飯盛山(314m)、主峰の生駒山(642.3m)、高安山(487m)、信貴山(437m)が連なり、大和川へと至る山地である。生駒山大阪府奈良県の県境に位置する。河内国大和国を隔てているわけだ。私は難波から近鉄奈良線に乗った。瓢箪山駅が生駒登山道の入口にあたる。額田駅から石切駅にかけて電車は急勾配を登ってゆく。石切駅生駒駅の間は生駒山の地下を走ることになる。石切までが大阪であり、生駒から奈良に入る。生駒駅で下車し、ペデストリアンデッキを通ってケーブルカーに乗り換える。犬の形をあしらったブル号に乗ると、途中、猫の形をしたミケ号と擦れ違う。およそ新地に行くには相応しくないデザインなのだが、何故にケーブルカーが犬や猫の形をしているのかといえば、山上に遊園地があるためである。遊園地に行くには、ここでケーブルカーを乗り換えることになるのだが、私には取り敢えず関係のない話である。改札を出て道なりに歩いてゆくと「観光生駒」の看板があり、ここから石段の参道になる。この参道に沿って左側に風情ある日本旅館が立ち並んでいる。ここが宝山寺新地ということになる。
まずは石段の参道を登り宝山寺にお参りすることにする。最初に鳥居があることに驚かされる。宝山寺は天部信仰の寺院なのである。神社形式が取られているのはそのためであろう。天部とは、仏教成立以前のバラモン教の神々であり、仏教成立後、仏教の守護神として位置付けられた神々である。梵天帝釈天毘沙門天、弁財天、大黒天、吉祥天、韋駄天、鬼子母神、摩利支天、歓喜天などが代表的な天部である。天部はサンスクリット語の「Deval」であり、もともとは「神」を意味するが、中国で天と訳され、日本においても踏襲されたということである。天部信仰の寺院は、そうした神々を祀っているのである。宝山寺は「生駒の聖天さん」の愛称で親しまれ、「現世利益の聖天さん」として信仰を集めているのだ。「人気、商売の神様としては全国的な信仰をあつめている」のだそうだ。言うまでもなく「聖天さん」とは歓喜天に他ならず、歓喜天は天部に属する。ところが、宝山寺を開いた湛海律師がそもそも本尊として選んだのは自作の不動明王であったし、そのことをもって当初は都史陀山大聖無道寺を称していたのである。しかし、今日にいたるまで遂に「生駒のお不動さん」と呼ばれることはなかったのである。現在の宝山寺では歓喜天のことを「尊天」と位置付けているが、言わば裏の本尊たる歓喜天が表の本尊を圧倒してしまったのである。
宝山寺の歴史は湛海の入山をもって始まる。延宝六年(一六七八)のことだから、宝山寺の歴史はそう古いものではない。もっとも宝山寺の縁起類によれば役小角を開基として、湛海を中興開祖としている。しかし、新田義円の「湛海律師と宝山寺」(『生駒市史』)によれば、江戸幕府は元和元年(一六一五)に五山十刹に対する法度を制定して以来、寺院の整理に乗り出した。元禄元年(一六八八)には是を名文化し、寛永八年(一六三一)以前から存在する寺を古跡と位置づける一方、それ以後造立された寺を新地として、新寺建立や修補相続も許さなかった。そこで寺院側は抜け道を考え出した。即ち、伝承などを最大限に活用して名僧を開基として新寺を建立したというわけである。役小角を開基とするのは、宝山寺がそうした寺院の一つである可能性を示唆しているにせよ、生駒山宝山寺が開かれる以前から既に神々の棲む「聖地」としての役割を果たしていたはずだ。それこそ古代における統一王権が成立する以前から生駒山を舞台に蓄積してきた山の信仰が古層として横たわっていたし、今に至るも古層の信仰は脈々と受け継がれているはずだ。宝山寺の縁起が役小者を開基としているのは、そうした山の信仰に大陸から伝来して来た密教系の仏教が出会った「歴史」が生駒山に刻まれていることを物語っているのかもしれない。湛海が宝山寺を開くに当って表の本尊を不動明王にしながら、裏の本尊として何故に歓喜天を選んだのか。また、裏の本尊として隠されていたはずの歓喜天が何故に信仰の対象として圧倒的に支持されることになったのか。この点にもっと歴史的な想像力を働かせて理解すべきではないのだろうか。
宝山寺の境内に足を踏み入れた。惣門をくぐり、左に地蔵堂、右に鐘楼を見ながら、中門を入ると右手に不動明王を祀る本堂が現われる。鳥居を挟んで、その奥に並んでいる聖天堂は寺院建築としては八棟造りと言うらしいのだが、棟や破風の多い「異形」の外観が参拝者の目を引くことになる。手前が外拝殿であり、すぐ後方の大きな屋根が中拝殿、一番奥の部分に火炎宝珠のある部分が聖天堂となっていて「大聖歓喜双身大王」こと歓喜天秘仏(秘神か)として祀っている。つまり、参拝者は湛海が自ら彫った「木造不動明王坐像」を見ることはできても、「聖天さん」との対面は叶わないのである。そもそも歓喜天は「聖天さん」という可愛らしい愛称とは違って、それこそ「異形」の本尊と言えるだろう。象頭人身の男神と女神の二体が向き合って抱擁しているという、「性」を連想させずにはおかないエロティックで異様な像なのである。
宝山寺新地の旅館群が一般的な日本旅館と違うのは玄関に「十八歳未満の方のご利用は固くお断りします」といった類の文字が書かれた札が目立たないように掲げられていることだろう。宝山寺のお膝元というか、足元にこうした日本旅館が立ち並び、この一帯が宝山寺新地と現在では呼ばれているのである。宝山寺新地の歴史は生駒新地と呼ばれていた時代にまでさかのぼる。それは大正三年のこと。西暦でいうと一九一四年。第一次世界大戦の始まった年である。大軌鉄道と当時は呼ばれていた現在の近畿日本鉄道が大阪・奈良間に開通し、生駒停留所が設けられたことに端を発する。停留所から宝山寺まで約一・四キロの参道が新たに開設し、ここに料理屋や旅館が軒を並べることになり、芸妓も出入りするようになったのである。置屋が誕生したのは大正四年末のこと。大正七年には日本初のケーブルカーが開通する。『生駒市史』の記述に従いながら生駒新地の歴史を追ってみることにしようか。
最初に誕生した置屋の名前は巴席という。この巴席は芸妓に赤穂浪士にちなんだ、例えば「不破」というような芸名をつけていたという。第一次大戦後の好景気に支えられ、大正七年頃には浜繁席という二軒目の置屋も誕生し、やがて都席、千歳席、浪花席など増加を重ね、大正十年の町制施行の頃になると置屋が十五軒、芸妓が約百三十名という規模に膨らんでいった。検番は既に大正八年頃に発足していたというが、この検番は大阪に拠点を置く大坂党と呼ばれていた面々によって創設された。しかし、生駒出身の生駒党と呼ばれる料理屋側と対立するようになり、生駒党も検番を発足させるなど揉め事が続いた。大正十年になって、置屋側と料理屋側が共同で検番を株式会社として発足させる。芸妓数は昭和五年になると一六二人を数えた。昭和十八年になると戦争のため置屋、検番は解散。料理屋は旅館として営業を続けた。昭和十七年の芸妓数は一四六人。戦後は昭和二十三年に「芸妓あっせん所」が開設され、翌年には芸妓置屋組合が発足した。しかし、昭和四十年代後半からキャバレーやアルサロに押され気味となり、芸妓が華々しく闊歩する花街としての生駒新地は次第に廃れ始め、現在では所謂「裏風俗」として命脈を何とか保っているのである。もっとも、昭和六年の段階で生駒芸者は三味線一つ持てないし、三味線一つ弾けないと新聞に批判されたこともあったというから、現在のような形になることがさほど不自然なことではないのである。現在も検番・置屋制度は健在なのである。旅館は検番を介し、置屋から女性を呼ぶのである。ただし、置屋は今やたったの三軒しか残っておらず、地元の消息筋によれば、そのうち一軒は開店休業中であり、実際に稼動しているのは二軒ということである。二軒で抱えている「女神」の数は三十名程度だそうだ。
歓喜天男神は毘那夜迦王である。人々に障害を与える王であると同時に人々の障害を取り除く王であるという二面性を持つ荒神である。この毘那夜迦王が「障礙神」として民衆に疫病をもたらし大いに苦しめた。民衆は障礙を取り除くべく十一面観音に祈願することにした。十一面観音は官能的な美しさを湛える女神である。十一面観音は民衆を救うべく毘那夜迦となって毘那夜迦王に接近した。毘那夜迦王は欲望の塊となって毘奈夜迦に迫ったが、毘奈夜迦はきっぱりと言い放つ。私とセックスがしたいのであれば、仏法を守護することを誓って、民衆を苦しめるのをやめて下さい、と。毘那夜迦王は毘那夜迦の申し出を承諾し、思いを遂げた。文字通り歓喜天はセックスのエクスタシー=歓喜を存分に味わった神なのである。だからこそ、歓喜天秘仏として隠されているケースが多いのだろう。しかし、「聖天さん」と呼ばれる寺院は、本尊を隠しながらも大根や巾着をもってして「聖天さん」の可視化を図っている場合もある。大根や巾着に様々なもっともらしい意味づけを施しても、そこに性的な「喩」がまとわりついていることは間違いあるまい。
本堂と聖天堂の裏山は般若窟と呼ばれる今にも崩れそうな巌山となっている。宝山寺はこの般若窟に弥勒菩薩を安置しているが、湛海が宝山寺を開く以前に生駒山霊場の中心であったようである。般若窟頂上には十三世紀初頭に建立された五輪塔が残っているが、生駒山では般若窟を中心に密教系の仏教と仏教以前の、もしかすると天皇以前の超古代に起源を遡れるようなアニミズム的な神道が習合する形で、人間の「自然」に根ざす「性」の神秘的な力を借りて、まだそのような言葉がなかったにせよ、「菩提」に至るような信仰が実践されていたのではないだろうか。仏教の(当時からすれば)近代的な「論理」が神道の「自然」に吸い込まれることによって「超論理」化され、「性」を「自然」の神秘的なパワーとして無条件に肯定する人間的な「倒錯」が育まれていったのだ。「聖」が「性」に通じ、「性」が「聖」に通じるという、わが国の「遊び」の仕組みの根っこは存外深いということでもある。般若窟は境内から見上げると、内側にくぼんだその姿形はヴァギナのように見え、遠く離れて、例えば東生駒あたりから見ると山の中腹に突起していることがわかり、それはペニスのように見える。言ってみれば般若窟自体が「自然」によって造形された両性具有の歓喜天に他ならないのである。この般若窟を背にした場所は歓喜天を迎える相応しかったのである。
日本旅館の玄関をくぐり、思い切って「ごめんください」と声をかける。美人の女将が出てきて、部屋に案内される。部屋の広さに驚かされた。飛田新地などは八畳程度なのだが、こちらは家族で宿泊するに足る広さであり、部屋に敷かれている布団も煎餅布団ではないし、トイレも完備していて、「ちょんの間」というイメージからはほど遠い。女将の説明によれば宝山寺新地は他の新地とは違って、時間が長いことが「売り」であるという。最大規模を誇る飛田新地は十五分で一万一千円、二十分で一万六千円といった分刻みの料金体系だが、宝山寺新地はショートで二時間なのである。料金は二万七千円也。午後九時から翌朝八時までの泊りが四万一千円。また午後六時からの泊りのコースもある。六万五千円という出費になるが、女性と一緒に食事を楽しむこともできるそうだ。別料金になるが、宿に会席料理の予約もできるし、宿の外で食事を楽しんでも良いそうである。私は初心者ということもあって二時間のコースを選択する。二万七千円の内訳を説明しておくと、一万二千円が女性の取り分、旅館は一万円で残りの五千円が花代となる。花代の五千円は置屋と検番、そして女性の寮費にまわるらしい。
「奥様に先だたれた七十歳過ぎの方なんですが、毎月一回必ずお参りを済ませてから、立ち寄られます。ここで女の子と一緒に食事をして、泊って帰られますが、『ホンマ癒されます』と言うてくれます。ご自身の商売が順調なのも、お薬を飲まんでも大丈夫なのも聖天さんのお陰のようやし、本当に有難いことですわ」
女将はにこやかに語ってくれた。宝山寺新地の客層の年齢は高く、癒し系の熟女が多いそうである。「聖天さん」への参拝を欠かせないことでも共通する彼らはセックスによって与えられる「歓喜」によって、生きる力を取り戻して帰るのである。この地は彼らにとって「聖」と「性」が矛盾なく一体化した再生の場所なのである。
現在では宝山寺ほど有名ではないが、生駒山には宝山寺の他にも歓喜天を祀る寺院がある。ケーブルカーで生駒山上駅に登り、遊園地には入らず北側を下りること二十分、もう少し具体的に説明するならば、石仏が二百体ほど並ぶ辻子谷を経てゆくと石切駅へと下る少し急な坂道があるが、その途上に興法寺があり、興法寺にも歓喜天が祀られているのである。興法寺の縁起によれば、この寺院の開基もまた役小角である。その後、八世紀初頭に行基が千手観音像を刻み、弘仁六年(815)には空海がこの地で修行し、歓喜天像を安置したとも伝えられている。本尊は十一面観音立像だが、歓喜天の女神は十一面観音の化身である。真言宗醍醐寺派に属することからして、この寺院が立川流に何らかの係わりがあった可能性もうかがわせる。南北朝時代には南朝方の、即ち後醍醐天皇サイドの城塞になったとも伝えられている。もしかすると、宝山寺の「元型」は興法寺にあるのかもしれない。辻子谷には辻子君と呼ばれる遊女の屋が集まっていた可能性も否定できまい。後醍醐天皇歓喜天。そうだ!
網野善彦は『異形の王権』のなかで後醍醐天皇元徳元年(1329)に聖天供の祈祷を自ら行なったことに注目して次のように記している。
「いうまでもなく、聖天供の本尊大聖歓喜天は、ふつう象頭人身の男女抱合、和合の像であり、男天は魔王、女天は十一面観音の化身といわれる。そしてもちろん平安後期以来、聖天供は宮廷でしばしば行なわれている。しかしこうした本尊を前に、密教の法服を身にまとい、護摩を焚いて祈祷する現職の天皇の姿は異様としかいいようがない。まさしく後醍醐は『異形』の天皇であった。
 極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然―セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではないだろうか」
歓喜天は人間の欲望を総てかなえる万能の神である。歓喜天に解決できない問題など何一つない。金銭欲、名誉欲、権力欲、出世欲から色欲にいたるまで思いのままなのである。後醍醐天皇鎌倉幕府を調伏すべく聖天供を行った。実際、後醍醐天皇鎌倉幕府を崩壊させ、建武親政を実現する。本尊たる歓喜天は行者、この場合は後醍醐天皇が加持する時、「行者に治罰されることを悲しみ、行きて怨敵を治罰し給う」のだ。歓喜天マゾヒズムサディズムに転化する「倒錯」を秘めた神なのである。聖天供は真夜中に行われる秘儀である。俗人には一切公開しない。聖天供の基本は浴油供というから歓喜天像に胡麻油をかけるらしいのだが、当然、秘儀に相応しい作法があるのだろう。藤巻一保の『真言立川流』は浴油供の次第について次のように紹介している。
「(象頭人身の歓喜天)像を造りおえたら、白月(旧暦一日から十五日までの期間)の一日に清められた室内に清浄な牛糞を用いて、磨いて円壇を作る。壇の大きさは随意でかまわない。一升のよく精製された胡麻油をとって、清浄な銅器に油を盛るべし。次に上の呪文を用いて油を百八遍、加持する。ついで油を熱し、聖天像を油の中に置いて、器ごと壇内に安置する。清浄な銅の匙や杓で油をすくいあげ、その油を聖天二像の頂から灌ぎ、全身を潤すこと百八遍。これを一日七回行う。┉┉かくして七日、これを修すれば、心に願うことは意のままに成就する。まさに灌油のときに、求めるところのものを発願すべし」
まさに潤滑油なのである。油は歓喜にいたるための「愛液」の役割を果たしているのだ。宝山寺においても、貞亨三年(1686)に聖天堂を建てて以来三百二十年以上にわたって、毎夜午前二時、住職によって聖天供が行われているという。何故に聖天供による祈祷が行なわれるのか。「聖天さま」が歓喜にいたることで、人々の欲望を全面的にかなえるためである。何故に人々の欲望は貪欲に堕落しなければ、必ずかなえられなければないのか。『理趣経』によれば純粋な欲望とは清浄なる菩薩の境地に他ならないのである。何故か。欲望だけでなく世の中のすべてのものの本性は清浄なのだから。そもそもこの国では天皇制が成立する以前から一木一草に神が宿っているのだ。そういう意味で立川流邪教でもなく、真言密教の異端でもないのである。『理趣経』に象徴される密教という外来思想が日本的な「自然」信仰に土着した必然的な帰結なのである。外来思想が本来有していた意味を換骨奪胎してしまうくらいに溶け合ってブレンドされてしまうのである。このようにして日本的な「倒錯」が起きるのである。それは一神教が支配する欧米では決して見られないような現象なのかもしれない。『受法用心集』には真言密教の僧のうち九割が立川流の信奉者になっていたと記されているが、そのくらいに両者は溶け合ってしまったのである。芸術人類学の中沢新一が『悪党的思考』で指摘しているように「日本的マンダラの思想」ということになるのだろう。
女性が部屋に入って来た。やや小太りであるが柔和な笑顔が印象的な三十代後半の女性である。簡単な挨拶をかわす。どちらからですか。宝山寺は初めてですか。次第に打ち解けてくるから不思議だ。彼女の出身地は神戸。何でも女性週刊誌のコンパニオン募集の求人広告を見て、この地にやって来たという。よせばよいのに私が歓喜天についてひとくさり解説すると彼女は言った。
「大般若会式いうてね、毎年五月一日から十日間に限って聖天さんのお側に行けるんですよ。ほの暗いなか、そりゃあもう何ともいえない香りが漂っていて、確かに興奮しますわ。それにしても聖天さんが象の顔をした男女が抱き合っている神様だなんて知らなかったなあ。これからのあたしらと同じじゃないですかぁ」
世間話の尽きたところで、そろそろお風呂に入りましょうかということになる。これも、ここ宝山寺新地の他の新地にはない特徴である。それこそ聖天供のような儀式が待っているのだ。しかも部屋の風呂に入るのではない。二人して大浴場を目指すのである。客はスリッパを履いて移動するが、彼女は素足だ。これも宝山寺新地の作法だという。この旅館の浴槽は何と巾着からお湯が湧き出ているという凝り様であった。大浴場で他のカップルと顔を合わせることもある。事実、彼女を行者として浴「湯」供を終えて、巾着からお湯が湧き出ている浴槽に私がつかった頃、別のカップルが「お邪魔します」と断ったうえだが入って来たのである。さすがに最初は驚いたのだが、他のカップルを見ることと他のカップルに見られることの相乗効果により、私の肉体は毘那夜迦王がそうであったように明らかに「変形」していた。そして恐らく彼女は十一面観音の化身なのである。私は本気でそう思い始めていた。
後醍醐天皇は現職の天皇であるにもかかわらず、自ら法服を身にまとって、聖天供の祈祷を行なったのは、網野善彦によれば、高野山宗徒から「異類」「異人」と罵倒された文観の影響であると推測してまず間違いないとのことであるが、文観も生駒山と係わりのある僧である。後醍醐天皇に寵愛された文観は、この天皇のために、恐らくは立川流とおぼしき異様な祈祷や呪術を駆使し、また「悪党」楠木正成との間を取り持つこととなったわけだが、もともとは西大寺系の律僧であり、律僧として竹林寺の長老に迎え入れられていたのである。竹林寺生駒山の東麓にある律宗の寺院である。
現在の竹林寺は平成九年(1997)に再興されたもの。明治維新後の廃仏毀釈によって廃絶されてしまった寺院の一つなのである。竹林寺行基の開基と言われ、行基の墓や忍性の墓があることで知られている。行基文殊菩薩の化身と言われた奈良時代の僧だが、竹林寺の本尊は当然のことながら文殊菩薩。ちなみに文観の文は文殊の文であり、観は観音の観である。忍性は元寇に際して蒙古軍の退却を祈願したことで知られ、後醍醐天皇から「菩薩」の称号を与えられた。いずれにせよ、文観は竹林寺の長老になりながら、正和五年(1316)
醍醐寺報恩院の道順から伝法灌頂を授けられ、真言密教の法流に連なることになる。
時代は違えども宝山寺を開いた湛海も文観と同様に密教と律学をともにおさめているのである。ただし、文観は律から密へというコースを辿ったが、湛海は密から律へというコースを辿った。湛海律師と呼ばれるのは、そのためだろう。湛海は三重県の出身だが、十八歳で出家して、最初は深川永代寺で真言密教を学ぶ。その後、高野山蓮華三昧院の頼仙より伝法灌頂を授かり、やがて京都に出て東寺妙観院隆禅僧正に勧修寺流秘密血脉を伝授される。壮年期には京都粟田口に歓喜院を開き、ひたすら聖天供を行じていた。そんな湛海に変化をもたらしたのは律学であった。それまで衰退を辿っていた律学だが、真言律、安楽律、如法律のもと復興の兆しが見え始めたのである。湛海は和泉神鳳寺の円忍に律を学び、一個の比丘として不動行者に転じるのである。そんな湛海が最後に辿り着いたのが生駒山であったのである。生駒山に入山してから二年、湛海は八万枚の護摩供を修するが、つまり、自らの法力の源泉を不動明王に見たのである。それでも湛海は歓喜天に外護を頼らざるを得なかったのである。湛海の没後、絶対的な不動行者を失った宝山寺は表の本尊を形骸化させ、裏の、そして奥の本尊たる歓喜天に信仰の軸足が移動していったのではないだろうか。生駒山の古層の信仰がそうさせたのである。
部屋に戻った。二人はそれこそ歓喜天像のように抱き合った後、予め敷いてあった蒲団に倒れこんだ。最近のフーゾク用語では「全身リップ」というのだそうだが、彼女は私の体全体を唇と舌と柔らかい指を巧みに駆使して愛撫する。歓喜の瞬間がそう遠くないことを身体の火照りとともに実感し、私は二万七千円の女神=十一面観音にいざなわれるようにして金剛界胎蔵界が「不二」なることを証明する時を迎える。そして、「不二」なることを徹底的に確かめているうちに、私たちの肉体を舞台にして「歓喜」が爆発する、「適悦」にいたる。これこそが清浄なる菩薩の境地なのだと『理趣経』は教える。「適悦清浄句是菩薩位」と。男と女がセックスをして悦なる快感を味あうことも菩薩の境地なのである。
 後醍醐天皇は自ら聖天供を行なった翌年の元徳二年(1330)、東密小野流の瑜祇灌頂を受けることになるが、清浄光寺に伝えられた『灌頂御影』とも呼ばれる後醍醐天皇像は、このときの模様を描いたものである。密教の法服を身にまとい、右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴を握っている天皇は、網野善彦の指摘するように確かに「異形」である。五鈷杵がペニスにして金剛界、五鈷杵はヴァギナにして胎蔵界を象徴していることは間違いないのである。この異様な後醍醐天皇肖像画について、『王の身体 王の肖像』の黒田日出男は金剛薩埵も右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴を持った菩薩であることを紹介したうえで、肖像画の上部に「天照皇大神」と書かれていることに注目して次のように述べている。
「皇祖神としての天照皇大神と、その正統な継承者としての天皇後醍醐の関係は明らかだ。注意したいのは、天照皇大神の本地が大日如来なのである。したがって、天照皇大神=
大日如来の下に、赤い日輪を頭上におく後醍醐=金剛薩埵がいるわけである。こうして明らかに、天照皇大神=大日如来と後醍醐=金剛薩埵の姿はダブってくる。この画像はつまり、皇祖天照皇大神と正統の天皇たる後醍醐、真言密教の教主大日如来と第二祖金剛薩埵がダブルイメージとなっているのである(密教的習合といえよう)」
 宝山寺新地の快楽を経験し、宝山寺を通じて歓喜天の秘密の力にアプローチし、その過程で後醍醐天皇と出会ってしまった私にとって、この黒田の見解は納得できるものではない。天照皇大神の本地を大日如来とすることに同意できないのである。確かに天皇は天照皇大神の正統な後継者ではあろう。しかし、後醍醐天皇の天照皇大神に対する「視線」は何かもっと野生的であり、誤解を恐れずにいえば性的な輝きを放っていたように思えてならないのである。後醍醐天皇に多大な影響を与えた文観はそもそも天照皇大神の本地を十一面観音だとしているという。既に述べたように歓喜天の女神は十一面観音である。後醍醐天皇は聖天供において歓喜天男神たる毘那夜迦王に自己投影していた可能性があるように思えてならないのである。しかも、瑜祇灌頂に踏み込んでいった段階ではそれだけでは飽き足らなくなってしまっていたのではあるまいか。金剛薩埵のパートナーは愛染明王であることも踏まえて言うのであれば、後醍醐天皇の認識は天照皇大神=十一面観音=愛染明王であり、後醍醐天皇=大日如来=金剛薩埵であるという段階にいたっていた。そうだとすれば後醍醐天皇は瑜祇灌頂において、皇祖神天照皇大神との壮大なる「和合」を意図していたことになる。この国の神の裔が神そのものになる「性」を本気で実行しようとしていたというべきかもしれない。そのような妄想が私を包み込んでしまったという意味でも生駒山は、やはり「聖地」なのであろう。そもそも無数の「そのような妄想」が神々を生成しつづけているのだ。むろん、「そのような妄想」のどれひとつとして日本的な「倒錯」から逃れられることなく―。実は、そのような「生駒山」がこの国のいたるところに存在しているのである。だから、天皇も、民主主義も、マルクス主義も、ロックンロールも、ポストモダン思想も、何もかも溶け合って、そして習合してしまうのだ。その表層において「近代」や「脱近代」を装ったとしても、相も変わらず一木一草に神は宿り続けるのである。