歴史ルポ② 司馬遼太郎『世に棲む日日』を歩きながら考えたこと

私たちが萩に到着したのは日没後のことである。城下町は既に闇に包まれていた。カメラ撮影を伴う取材はできないだろう。強い酒精を求めてタクシーに飛び乗る。
札場跡の信号の辺りでタクシーを降りた私たちが発見したのは場末というに相応しい崩壊感を漂わせたスナックであった。先客が二人。既に相当酔っている様子だ。二人とも還暦は超えているだろう。見掛けは普通の「おじいちゃん」。…なのだが、揃って小指の第一関節から先がない。詰めているのだ。一人が胸を張って言う。
「広島の刑務所に三回ほどお世話になったことがありましてね」
彼がとどのような経緯でそのような人生を辿ったかについて、その一端を聞かされたかと思うのだが、その頃には私も酔ってしまっていたため全く記憶に残っていない。ただ、東京辺りの盛り場で酒を飲んでいる限り耳にしないようなフレーズが私たちに語りかけてくる話のなかに、繰り返し、繰り返し織り込まれていたことだけは強烈な印象として残っている。彼らは、
吉田松陰先生は勤皇の志士」
と言った。別に萩の観光ガイドを私たちにしてくれたわけではない。小指を欠損するに至る自らの人生の一端に係わる何事かを正当化するに際して「吉田松陰先生は勤皇の志士」という言葉を何の衒いもなしに記憶の底から呼び起こすのであった。やはり長州なのである。ここはただの山口県ではない。長州は明治維新震源地に他ならない。下関にしても馬関というが相応しかろう。
司馬遼太郎が『街道をゆく』で「長州路」を取り上げたのは昭和四十六年(1971)のこと。連載が開始され半年ほどが過ぎてからのことである。ところで、『街道をゆく』の「長州路」の冒頭にはいささか物騒な穏やかならざる文章が置かれている。
‹「司馬ナニガシが長州にくれば殺す」
と言っていましたよ、と京都のフランス語の学者が大まじめで教えてくれたが、そのおだやかならざる客気はさすがに長州奇兵隊の末裔というべきであろう。かといって殺される理由はおもいあたらないのだが、殺す側にとっては理由などはどうでもよろしい。一種昂然たる気分の表現というべきものなのである。›
 私たちはどうやら長州・萩に到着するなり、「奇兵隊の末裔」たる長州人の「一種昂然たる気分の表現」に遭遇してしまったようである。
司馬遼太郎の『世に棲む日日』は「長州の人間のことを書きたいと思う」という一行から書き起こされた小説である。『週刊朝日』に昭和四十四年(1969)二月から昭和四十五年(1970)十二月まで連載された。後で触れることになるが、東大・安田講堂の落城とともに連載が開始され、その年の十一月の三島由紀夫の壮絶なる自死と歩調を合わせるがごとく連載を終えることになる。主人公は吉田松陰(寅次郎)と高杉晋作。この二人を「大人」ではなく、「書生」(=若者)として描くことで、吉田松陰をその「狂気」から救い出し、その「狂気」を無化してしまおうという大胆な試みがなされた小説である。いささか逆説めいた物言いになるが、司馬が吉田松陰の「狂気」に正面から向き合った結果、選択された方法であろう。司馬は松陰の旅する「青春」を描くのだ。
翌日、私たちは幕末の風景を美しく残している萩の町をぐるぐる回ることにした。まずは吉田松陰墓所への坂道をクルマで登る。この墓所は松陰の兄杉民治が明治初年に玉木家、久坂家、杉家、児玉家の墓を寄せ集めたものである。松陰の墓は明治維新の原動力となった松下村塾の門人たちの墓に取り巻かれている。松陰の墓を守護するかのようにその上に高杉晋作の墓があり、吉田稔麿の墓は左後方に、少しはなれて久坂玄瑞の墓があるという具合である。松陰の墓碑には「松陰二十一回猛士墓」と刻まれている。「二十一回猛士」とは生涯に二十一回、猛々しいことを実行するという意味が込められた号である。墓前で手をあわせ、隣接する松陰誕生地から萩の町を展望する。ここは萩の周縁部なのだ。松陰誕生地は敷石により、決して広いとはいえない、どちらかといえば貧相な当時の家屋の形態を再現している。この家屋跡地に並んで金子重之助を従えた吉田松陰銅像が置かれている。この銅像は明治四十三年(1968)、明治維新百年記念に建立されたものだが、下田海岸に停泊するペリー艦隊を望見している像である。台座には「吉田松陰先生」と刻まれている。ちょうど『世に棲む日日』が書かれる直前に完成したことになるわけだが、「先生」と呼ばれるに相応しい立派な銅像である。だが、司馬は小説のなかで松陰誕生地について書きながらも、この完成したばかりの(小説執筆当時において)銅像の存在を無視する。
萩の町を歩いていると分かることだが吉田松陰のことを未だに吉田松陰先生と多くの人が尊敬を込めて呼んでいる。それは教育の成果と言っても良いのかもしれない。吉田松陰は八歳にして藩校・明倫館の教授見習となったが、その明倫館の跡地は現在明倫小学校となっている。明倫館時代の趣を今でも色濃く残す、ステキな木造立の小学校では昭和五十六年から毎朝、「松蔭先生の言葉を声高らかに朗唱」しているという。明倫小学校は私立ではなく、市立だが、「松蔭先生の教育精神を学ぶ」ことを教育目標に掲げているのだ。小学一年生にして「親思うこころにまさる親ごころきょうの音ずれ何ときくらん」を朗唱してしまうのである。大人になってからも、小学校で朗唱した松陰先生の言葉をふと思い出すこともあるという長州の人々にとって、司馬遼太郎のように「過激者」とか「異常人」という言葉までも松陰先生に投げつけてしまうことなぞ許し難いことなのかもしれない。だが、司馬にあって吉田松陰は先生ではないのである。書生にしか過ぎないのである。そんな司馬であるから、小説のなかで松下村塾の建物と杉家旧宅が現在もほぼ完全に残されていることには触れていても、そこが松陰神社の境内であることは全く触れない。
『世に棲む日日』を書き上げたばかりの司馬は鶴見俊輔との対談のなかでとまで言っているのである。司馬は鶴見にこう語りかけている。
‹ここに、幕末の吉田松陰という一大人物がいます。松蔭はつねに「狂」ということを言うんですけれども、その「狂」は、わが思想を現実化しようとするときには、「狂」たらざるをえないという意味での「狂」で、たいへん思想的なことばです。精神病理学のことばじゃないです。何にしても、松蔭は「狂」を発して、みんなに知られている彼の悲運のなかに入っていくんですけれども、そうした「狂」は、人間の歴史や社会がひじょうに古びに古びて三百年に一度、それが革命という手段で社会を一新させなけりゃしようがないというときに発すべきものであって、そういう時代は日本人の場合は明治維新しかもっていないわけです›
吉田松陰のような「狂気」は民衆にとってみれば迷惑きわまりないものであり、三百年に一度で結構なのだと司馬は考えているのだ。しかも司馬は「狂気の人は決して歴史の主役たりえたことはない」と鶴見に断言する。司馬が三島由紀夫の割腹自殺に際して、政治的な死ではなく、あくまでも文学論のカテゴリーにのみとどめるべきだと書いた「異常な三島事件に接して」でも松陰をわざわざ取り上げて、「われわれの日本史は松陰をもったことで、一種の充実があるが、しかしながらそういうたぐいの精神はながい歴史のなかで松陰ひとりでたくさん」と書く。これまで書かれてきた多くの松陰伝との違いはここにある。『世に棲む日日』はその対極に位置する。例えば山岡壮八などは「松陰ひとりでたくさん」などとは考えない。山岡は新たな松陰=「狂気」の出現を現代に待望しているからこそ、檄するのだ。小説『吉田松陰』のなかの一節。
‹侵略と弱肉強食を肯定して来た文明は、やがて階級闘争という新しい対立の芽生え
を促し、その間に躍進せしめた科学によって、ついに原水爆を人類の頭上にかざして愚かな思想の転換を迫っている。
松陰が、もし今日あったら机を叩いて叫ぶであろう。
「―攘夷が足りなかったのだ!」>
司馬遼太郎の『世に棲む日日』は言ってみれば偶像破壊の物語なのである。松陰神社銅像が無視されたのは、そのためであろう。よって次のような小説の風景をもたらすことになる。明倫小学校の六歳児童が朗唱している「親思うこころにまさる親ごころきょうの音ずれ何ときくらん」は松陰が安政の大獄による刑死を前に辞世として詠まれた一首だが、この一首をはじめ遺言書として書かれた『留魂録』の冒頭に置かれた「身はたとひ武蔵の野辺に朽るとも留め置かまし日本魂」、国家の大禁を犯してまで企てたアメリカへの密航に失敗し、江戸に護送される途上に詠まれた「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」といった、従来の吉田松陰伝においては欠かすことのできなかった感性の絶唱にして思想の絶叫の詩が全く引用されていないのである。「討たれたる吾をあはれと見ん人は君を崇めて夷攘へよ」もなければ、「七度も生き返りつつ夷をぞ攘はんこころわれ忘れめや」もないという小説の風景。司馬遼太郎吉田松陰尊王攘夷という「思想」=「正義」を深く、強く拒絶する。松陰の個性をその「思想」のうちに求めようとはしないのだ。そんな司馬にあって三島由紀夫の才能は、あくまでも文学というカテゴリーのなかでのみ評価されるべきなのである。
確かに吉田松陰が革命の初動期に「詩人的な予言者」として、その「思想」を現実化しようとする「狂気」を発動させ、やがて、その「狂気」は松下村塾に学んだ高杉晋作久坂玄瑞などの弟子たちに強烈に感染し、遂には長州が藩をあげて集団発狂するという事態なしに明治維新という日本革命は実現し得なかったであろう。「思想」が「狂気」に止揚することなくして革命はあり得ないのである。ロマンティシズムを避けては通れないという、この革命のリアリズムは司馬も了解している。だから、松陰のような存在が歴史で際立つのは三百年に一度でたくさんなのである。『世に棲む日日』には、こうある。
‹革命の初動期は詩人的な予言者があらわれ、「偏癖」の言動をとって世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。松蔭がそれにあたるであろう。革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作坂本竜馬らがそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれにあたる›
徳富蘇峰を踏まえて、このように理解する司馬が松陰を「詩人的な予言者」たらしめている詩的絶唱=思想的絶叫を小説から排除したのは、吉田松陰の「狂気」が絶唱や絶叫というロマンティシズムを媒介にして「現在」に呼び覚まされることを民衆のひとりとして恐れたからに他ならないのである。そう、司馬遼太郎福田定一という本名を持つ民衆のひとりなのだ。
司馬遼太郎歴史小説の手法を「俯瞰」として捉えてはなるまい。司馬遼太郎歴史小説を「史観」に収斂させてはならないということだ。もし「俯瞰」の視座に徹底していたのであれば、長編としての構成力はもっと強固なものになっていたはずである。むしろ司馬は長編としての構成力を犠牲にしてまで「地べた」からの視点にこだわったと考えるべきではないのか。小説の本線からすれば明らかに脱線しながらも、実に雑多な人々が次々に、かつ生き生きと登場するのはこのためだ。しかもローアングルによる接写を多用するため、長編としての構成力を毀損させてしまうのだ。加えて「余談」を引っさげて司馬自身が物語としての流れを中断してまで小説に介入する。明らかに司馬遼太郎は自らを民衆の一人として位置付けているのだ。いや、厳密に言うのであれば市井の人に他ならない福田定一司馬遼太郎を創造し、司馬をして様々な歴史小説を書かせたのである。司馬遼太郎を縦横無尽に駆使する福田定一の生活は決して宙に浮くことなく、両足を「地べた」につけている。このことこそ民衆の歴史の一コマとして記憶されておかれるべきことであろう。
吉田松陰の思想といっても、それは体系的なものではない。松陰の思想は断片としてしか存在していないし、内容的に言っても朱子学陽明学的に誤読した程度の貧困なものであった。要は「尊王攘夷」としか言っていないのである。しかも「尊王」や「勤皇」といったところで松陰にとって天皇は抽象的な存在にしか過ぎなかったし、「攘夷」といったところで戦争のリアリズムを兼ね備えていたとは言い難いものである。司馬遼太郎も『「昭和」という国家』のなかで言い切っている。
明治維新はいろいろな素晴しいものを持っていました。しかし、思想は貧困なものでした。
尊王攘夷だけでした。›
よく知られているように司馬は「明治国家」を評価しているが、それは「尊王攘夷」による集団発狂の時期が一年も続かず、徳川幕府を倒し、新政府を樹立すると、数ヶ月で普通の状態に戻ったので、「江戸時代における多様性が、明治という一本の川になってあらわれた」のである。しかし、「尊皇攘夷」の「狂気」はここで完全に消滅したわけではなく、地下水脈として沈潜することで残り続けた。そして、昭和前期の、司馬の言葉によれば「くだらない戦争」の時代に「集団狂気」として再び暴走を始める。司馬の文脈に従って言えば昭和期になって日本の軍部は明治のひからびた尊王攘夷という思想を持ち込み、「統帥権という変な憲法解釈の上にのっけてしまったというわけである。司馬は敗戦直前、栃木県の佐野近辺に駐屯している戦車隊に所属していて、本土決戦に備えていたという。もし、アメリカ軍が東京湾なり相模湾からアメリカ軍が上陸してきたならば、高崎を経由している街道を南下して迎え撃つことになっていたのだが┉。司馬は次のように先の鶴見との対談で語っている。
‹わたしはそのとき、東京から大八車引いて戦争を避難すべく北上してくる人が街道にあふれます。その連中と南下しようとしている、こっち側の交通整理はちゃんとあるんですか、と連隊にやってきた大本営参謀に質問したんです。そうしたら、その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、言いました。これがわたしが思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点ですけれども、「ひき殺していけ」と言った›
そして、敗戦。司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのかと、まず思いました。そして、なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」と思ったと『「昭和」という国家』において述懐している。
昭和前期の松陰神社。そこは今のように観光客でごった返す観光の名所ではなく、「くだらない戦争」の聖地に他ならなかった。
‹日華事変から太平洋戦争と戦局がきびしくなるにつれ、萩市松本にある松陰神社は“撃ちてしやまむ„の戦勝祈願の人たちが日ましにふえた。“祝入隊„と大書したノボリをたてた応召の兵士。エプロン姿に“国防婦人会„のタスキをかけた団体。配属将校の号令で“捧げ銃„をする中学生。日の丸のハチ巻きをした勤労動員の人など、あらゆる階層、あらゆる年齢の男女がつづいた›(毎日新聞社山口県の戦後史』マツノ書店)
この頃の萩市内の小学校で盛んに朗唱されたのは「親思う┉」の一首ではなく、「身はたとい┉」の一首であり、教育方針は「第二の元寇ともいうべき昭和維新は、明治維新発祥の萩から」というものであった。また、小学六年生になると松陰神社の清掃奉仕があったというし、中学生ともなると大詔奉戴日には銃を担いで参拝し、神前で戦争を戦い抜く決意を誓ったという。昭和十六年(1941)、太平洋戦争が始まると山口県民を中心にして編成された歩兵第四十二連隊は十二月八日にマレー半島に上陸し、二月十五日にはシンガポールを陥落させた。この歩兵第四十二連隊は日華事変でも活躍しているが、「くだらない戦争」において命知らずの精強部隊として勇名をはせた。靖国神社には山口県出身者が四万九一九二人祀られているが、四万以上が昭和の戦争の犠牲者である。
司馬遼太郎明治維新百年にあたる昭和四十三年に「防衛のこと」というエッセーを書いているが、「反戦」とか「平和」といったイデオロギーの手垢に塗れた言葉を使わずに、その最後の一行でこう書いている。
‹話は飛躍するが、この島の防衛の至難さから考えて、一発の弾ももたずに日本の防衛をなしうる魔術的な政治力だけが、今後の日本の首相になりうる唯一の条件ではあるまいか›
「右翼が嫌いで、左翼にはかるい好意をずっともって」(「日本史から見た国家」)きたという司馬遼太郎が『世に棲む日日』で好んで引用する吉田松陰の文章は、昭和前期の「集団狂気」に加担しなかった吉田松陰なのである。司馬が愛着を寄せるのは平穏な社会に生まれていれば旅行随筆家にでもなったかもしれない、所詮は「書生」の、どこまでも底抜けに明るい吉田松陰なのである。
萩城跡の外側から広がる城下町は現在でも町筋はそのままである。なまこ壁と呼ばれている美しい白壁が続く菊屋横丁。その一角に高杉晋作生誕の旧宅があり、近くの江戸屋横丁には桂小五郎の旧宅がある。『世に棲む日日』は主人公が吉田松陰から高杉晋作へと入れ替わる。このことは第一章において予め読者に告げられていたことである。
‹┉┉主人公はあるいはこの寅次郎だけではすまないかもしれない。むしろかれが愛した萩ずまいの上士の子高杉晋作という九つ下の若者が主人公であるほうがのぞましいかもしれず、その気持がいま筆者のなかで日ごとに濃厚になって絡みあい、いずれともきめかねている。いや、いまとなってはその気持のまま書く。›
 私たちも下関、いや馬関に移動することにした。
海は澄んでいた。海峡ならではの潮の流れの速さによって澄んでいるのだろう。本州と九州を結ぶ関門トンネル人道入口から国道九号線をはさんで向かい側にある「みもすがわ公園」から対岸の九州をのぞむ。いわゆる壇ノ浦をはさんで北九州市門司区和布刈とは僅か七八〇メートルを隔てるのみである。長州砲のレプリカがこの公園には置かれている。下関攘夷戦争において長州砲は火を噴いた。攘夷に決起した久坂玄瑞らによって、文久三年(1863)五月十日にはアメリカ船ベンプロープ号に対して、五月二十三日にはフランス船キャンシャン号に対して砲撃が加えられた。しかし、六月一日にはアメリカの軍船ワイオミング号に報復され、長州藩の軍艦二隻が撃沈、一隻が大破。また六月五日にはフランスの軍艦二隻が来襲し、長州藩フランス軍の上陸を許してしまい、砲台は破壊されてしまう。この敗戦に際して、長州藩主・毛利敬親は隠棲中の高杉晋作を呼び戻す。
そして、高杉晋作奇兵隊を結成する。司馬遼太郎にならえば長州は奇兵隊の国なのである。奇兵隊から明治維新の幕は切って落とされる。『世に棲む日日』によれば、
封建社会の秩序と安定は、身分に等級をつけることによってできあがっている。たとえば百姓町人には大小も差せないし、姓も名乗れない。ところが晋作の「奇兵」構想では、それを一挙にゆるしてしまおうというのである。もはやその瞬間から封建身分社会が崩れたことになるであろう。げんにこの「奇兵隊」の創設から、明治維新は出発するといっていい。›
 奇兵隊が結成されたのは白石正一郎邸。白石は廻船問屋を営む侠商。白石の資金なしに高杉は奇兵隊を結成できなかったろう。しかし、往時を偲ばせる邸宅は残っていない。財産のすべてを革命に注ぎ込み、白石家を没落させてしまうのだ。白石邸の痕跡は竹崎町の国道191号線に面する中国電力下関営業所の敷地のほんの一角に石碑が建っているだけなのである。破産した白石は赤間神宮の初代宮司として人生をひっそりと終える。現在、馬関で最も目立つ建造物が赤間神宮であるが、ここを訪れる観光客には壇ノ浦の合戦における平家の悲劇を伝えるのみである。幕末において、そこは阿弥陀寺と呼ばれ、膨張した奇兵隊の屯所となっていたのである。
そもそも司馬遼太郎が小説の主人公として高杉晋作のほうがのぞましいのかもしれないと考えたのは何故だろうか。それは松陰がリアリストにほど遠いファナティックな思想家であったのに対して晋作は生涯において「狂」という言葉と世界に憧れながらも、思想的体質はなく、直観力にすぐれた違うことなきリアリストであったからである。晋作は松陰のように「思想」に身を焦がすことはなかったのである。思想家であるがゆえに松陰の人生は一直線に逃げることなく死に向かって突き進んで行ったが、リアリストであるがゆえに晋作の人生は逃げることを知っていたと言うべきだろう。
奇兵隊の開闢提督でありながら、六ヶ月で脱藩してしまう。馬関に来襲した四国連合艦隊との講和交渉を成功させながら、九州へ亡命を余儀なくされる。功山寺挙兵によって藩内クーデターを果たすものの馬関の権利争いで支藩長府藩士から追われることになり四国へ亡命。幕長戦争において大島口の海戦に勝利し、海軍参謀として小倉戦争を指揮して小倉城を炎上させるも、肺結核を悪化させ、明治維新の成就を眼前にして慶応三年(一八六七)四月十四日、死去。
高杉晋作の憧れる「狂」は「おもしろきこともなき世をおもしろく」生きるためのものであった。いわば命がけの酔狂ではなかったのか。行動の成功によって得られた権力にしがみついていたのではおもしろくは生きられまい。権力から自由であるために逃げるのだ。よく知られているように「おもしろきこともなき世をおもしろく」は晋作の辞世である。「この男にとっては、革命と遊蕩はひとつのもの」なのである。高杉晋作は常に「非権力」の場所から革命に出撃していったのである。そうした生き方は「書生」にして可能である。司馬遼太郎高杉晋作もまた「書生」として描き出す。時代の空気がそうさせたのである。『世に棲む日日』は全共闘の学生に占拠されていた東大・安田講堂の機動隊による落城を見届けるようにして連載を開始したのである。司馬遼太郎高杉晋作という「書生」をもって、全共闘という「書生」に対峙していたのである。司馬は現代の「書生」に手厳しい。全共闘に対話を求めた三島由紀夫とは対照的である。司馬遼太郎高杉晋作をもってして全共闘を批判しているのである。彼らは、所詮「国家」に守られているのではないかと。
東京大学の構内で数多くの小団体が入りみだれてなぐりあっている。国家がそれをながめている。日本史上、これほど軽い国家をもったのはいまがはじめてだし、傍観している国家の物うげな、とまどったような表情は、歴史にのこるほどのすばらしさである。>「軽い国家」
‹三派全学連が大学の窓ガラスを一枚割ってみた。誰も叱りにこない。こんどは百枚割ってみた。やはり誰もこない。教授たちもこれをだまって見ているだけです。そしていかにも教授たちの生命を脅かしそうな様子をみせたときだけ、大学は機動隊を呼ぶ。機動隊がくると、三派諸君ははじめてうれしそうに国家権力が介入してきた、などと叫ぶわけです。国家権力というものは、十九世紀までは、いや第二次大戦のころまではそんなチャチなものではなかった。もっと重苦しく威圧に満ち、じつにまあイヤなものだった。>「日本史から見た国家」
司馬遼太郎は軍部に占領されていた昭和前期の「重い国家」との対比でいえば、戦後の「軽い国家」を支持しているのだ。即ち、戦後民主主義の価値観を大枠で認める。司馬からすれば三島由紀夫の「文学」は時代に屹立したが、三島由紀夫の「政治」は時代の空気を誤読したのである。むろん司馬は「戦後のこの軽い、軽いがためにこのもしくもあるこの国家」が国民の自由意志によって選択されたものではないことを承知している。アメリカに押し付けられたのだ。しかし、だからといって三島のように「文化概念としての天皇」という形で革命原理を持ち出すようなことはしない。司馬遼太郎の基盤はあくまでも「われわれ」=「民衆」である。「…この文明の段階にもっとも適合した国家というものをわれわれの手ですこしずつ作りなおしにとりかかってみる必要があるのではないか」(「軽い国家」)と司馬は書く。
 この司馬の覚悟を甘くみるべきではない。大岡昇平との対談において言い放つ。
‹内乱ですな。海外派兵や徴兵などといえば内乱はやりますよ。私どもは(笑)。>
 司馬遼太郎の「正気」である。
 功山寺にのぼった。高杉晋作のとても「書生」とは思えない立派な銅像が置かれている。文字は元総理大臣・岸信介の書である。ちなみに萩の吉田松陰銅像の書は元総理大臣・佐藤栄作であり、松陰神社に置かれている石碑「薩長土連合密議之処」の文字は、これまた岸信介の書。長州出身の岸信介佐藤栄作兄弟にとって、吉田松陰は「先生」であるし、高杉晋作は「勤皇の志士」に他ならなかったのである。そして、ともに「重い国家」を夢見た政治家であったのだろう。実に司馬遼太郎の「正気」から遠く離れた存在であったというべきか。