歴史ルポ③ 京都に刻まれた法華コミューンの痕跡を訪ねて

旅行ガイドブックの類では殆んど取り上げられることのない京都を今谷明の『天文法華の乱』をヒントにして二日間にわたって歩いてみようと思った。
「ウチのお寺は四季折々、お花が本当に綺麗なんですが注目されません」
と、この界隈の寺院関係者のひとりは私たちに嘆いてみせた。
「京都には観光の方がひっきりなしに訪ねて来られる宣伝の上手いお寺さんがありますけど、何しろウチのお寺さんは宣伝が下手なもので」
しかし、弘宣流布という言葉を好んで使ったのは、この宗派であったはずである。しかも、京都人気質を考えるに際して、この宗派が与えた多大なる影響は決して無視できないのではないだろうか。私たちは地下鉄を鞍馬口で降り、西に向かって徒歩四〜五分といったところか、西陣寺之内界隈に密集する法華宗日蓮宗)の寺院を一日目に訪ねてみることにしたのである。豊臣秀吉の都市改造によって法華寺院は、この辺りや寺町に集められたのである。
最初に妙覚寺の大門をくぐった。この大門は聚楽第の裏門を移したと伝えられる武家風の威風堂々とした薬医門。この門を春は枝垂桜が華やかに彩り、本堂前の庭園・法姿園は秋の紅葉の美しいことで地元の人々には知られているが、観光客でごった返すということは殆どないようで、普段はとても静かなゆっくりとした時間が流れている。そんな境内の一角に天文法華の乱の受難者およそ三千人を慰霊する目的で建立された殉教碑が置かれている。歴史家からすれば「乱」だが、法華宗の側の認識からすれば「法難」なのである。むろん「乱」であろうと、「法難」であろうとも天台宗法華宗の「戦争」であることに変わりはない。天文五年(一五三六)七月、比叡山延暦寺の山徒が蜂起して、これに六角定頼が率いる近江衆が加わった連合軍が洛内に攻め入り、京都法華宗二十一本山を七月二十八日までにことごとく焼き討ちにして滅亡させてしまう。都に咲いた法の花は、ここに散ってしまうのである。洛内の法華宗寺院は末寺を頼って堺への「亡命」を余儀なくされるのである。妙覚寺の住持日兆は切腹して果てている。史料によっては山門の兵力は十五万人、六角の兵力が三万、法華一揆の兵力は三万人などと記している例もあるが、今谷明は『天文法華の乱』のなかで山門・六角連合軍が二〜三万人、法華一揆が二〜三千人というところが真相に近いのではないかと推測している。いずれにせよ、花の都は応仁の乱を上回る規模の壊滅的な被害を蒙ったのである。
妙顕寺に向かった。表門からは入らず、駐車場から入った。参道の両脇には染井吉野が十本ほど並んでいるが、どれも樹齢百年ほどの高さが七〜八mに及ぶ大木である。本堂西側の一角は秋になると真っ赤な紅葉のトンネルが出現するし、地元のカメラマン氏によれば秋明菊も美しいとのことである。表門に回りこむと菊の紋章とともに「門下唯一 勅願寺」であることを誇らしげに謳っていることがわかった。妙顕寺は京都において法華宗の寺としては最も古い歴史を持っているのだ。そもそも法華宗の京都における布教=弘宣流布は妙顕寺を開いた日像によって始められたのである。日像が京都の地に足を踏み入れ内裏東門で日輪に向かって力強く題目を唱えてから辻説法を始めたのは鎌倉時代末の永仁二年(一二九四)のこと。それは「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」という四箇格言に基づく激烈なる折伏=アジテーションであった。
法華経の正法を忘れ邪法に迷えば国も危うく民は苦しむ。速やかに妙法に帰一せよ」
当然、他宗は日像の辻説法を嫌い朝廷に訴えたことにより、日像は三度も勅命で京都から追放されている。そんな日像に勅願寺の綸旨を与えたのは、網野善彦が「異形の王権」と呼んだ後醍醐天皇である。後醍醐天皇建武新政を実現するにあたって「猫の手も借りたい時期」(今谷明)であったのだ。
日像の入京を手引きしたのは油屋太郎兵衛なる商人であったが、永和四年(一三七八)に妙顕寺の後継をめぐって意見の対立が生じ、日実が信徒で富商の小野妙覚の外護を受けて創建したのが妙覚寺である。また、嘉慶元年(一三七八)の山門による妙顕寺破却の撃鉄を引いた日什も天王寺屋通妙の自宅を寄進されて妙満寺を開いている。このように洛中において法華宗に帰依していった中心は京都の「経済」を握る土倉や酒屋、油屋などの町衆であり、この京都の商業資本を牛耳る町衆が自らの経済権益を守るために進んで武装し、やがて法華一揆へと進化を遂げてゆくのである。それまで都の「経済」を支配していたのは比叡山延暦寺に他ならない。そもそも土倉・酒屋の大部分はもともと比叡山延暦寺支配下にあったのである。そうした山門支配の土倉には法体のものが多く、比叡山を降りて来た僧侶が土倉を構えたというケースさえあったのである。それだけに法華宗への「転向」が易々と行われたとも言えるのではないだろうか。
天文法華の乱は、比叡山延暦寺西塔の華王坊が法華門徒の松本久吉と宗論して敗れた松本問答に山門大衆が激怒したことに端を発すると言われているが、そうした宗教戦争の側面だけではなく、経済戦争の側面もあったはずである。現代に至るまで宗教の対立は必ずと言って良いほど経済の対立をともなうようである。
妙顕寺の東隣に位置する塔頭泉妙院には「紅白梅図屏風」を代表作に江戸時代に活躍した尾形光琳を始め、妙顕寺の総墓地から移された光琳一族の墓石が並んでいる。もともと尾形光琳呉服商・雁金屋の当主の次男として生れている。尾形光琳本阿弥光悦俵屋宗達の画風を学んだと言われているが、光悦一族も、宗達一族も、更には狩野永徳一族もまた京都の町衆であると同時に法華衆であった。そういう意味では法華芸術と総称しても差し支えあるまい。
寺之内通に出た。妙顕寺を背に右に進み、小川通を折れると表千家不審庵、裏千家今日庵が右側に、左側には茶道具や茶器を売る店が並ぶ。千利休法華宗の寺院の関係も決して浅いものではない。織田信長千利休を茶頭として大茶会を妙覚寺で何度か催している。本能寺の変妙覚寺で茶会を開いた日の夜、厳密に言えば翌日の未明に起きた事件である。ちょうど不審庵の門を沢山の和服姿の女性が潜っていた。いかにも京都といった雰囲気を堪能しながら更に小川通を進むと左側に本法寺の表門が姿を見せることになる。小川通一帯は木造住宅が多く残っていて、古都というイメージがぴったりの町並みの情緒が味わえるスポットである。それでいて観光ズレしていない。週末の土曜日であるにもかかわらず、私たちは未だ一人の観光客とも出会っていなかった。
「南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経!!」
腹に力のこもった題目が耳に入ってきた。摩利支天を祀っているお堂で信者の方々が題目を唱えているのである。私たちが今日初めて耳にする題目である。本法寺妙顕寺に比べれば敷地は狭いけれど、山門や多宝塔、本堂など実に風格のある趣の建物が並んでいる名刹だ。本法寺も他の法華宗寺院同様に豊臣秀吉の都市改造の一環として現在の地に移ってきたわけだが、この移転工事を監督したのが本阿弥光悦であり、光悦作とされている枯山水庭園「三つ巴の庭」は見所の一つである。また長谷川等伯の高さ十mに及ぶ重要文化財の「佛涅槃図」を複製品だが見ることができる。
本法寺の開基は日親。後世に「鍋かぶり上人」と称されることになる日親である。日親が下総の中山法華経寺から上京したのは応永三十四年(一四二七)正月のことであった。都には何のツテもなかった。二月八日、日親は都の外れにあたる一条戻橋辺りに傘を立てて辻説法を始める。当初は石を投げつけられるなど迫害にあったが、やがて聴衆が市をなすまでに京の人々の共感を得ていった。日親の活動の場は京都にとどまらず九州にも及ぶ。そして遂に永享十一年(一四三九)、室町将軍足利義教に諌暁を図る。義教は二度と諌暁に及んだならば斬ると諌暁を禁止する。しかし、日親は諦めることなく諌暁書「立正治国論」を著してしまう。これに激怒した幕府は日親を投獄し、拷問を加える。その拷問の一つとして紅色に焼いた鍋を頭にかぶせたということになるのだが、そんなことを実際にしたならば生命を維持することは絶対に無理であろう。後世につくられた「伝説」であることは間違いあるまい。嘉吉元年(一四四一)、義教が殺されたことで日親は赦免される。獄中で出会った光悦の祖父にあたる本阿弥清信の帰依によって本法寺が建立される。
「以後、これを突破口に、法華寺院は洛中に簇生していくのである」(今谷明『天文法華の乱』)
洛中の法華宗は応仁・文明の乱(一四六七〜一四七七)前後には洛中に本山だけで二十一寺を数えるまでに拡大し、天文元年(一五三二)の頃になると毎月二〜三ヶ寺ずつ法華宗の寺院が出来するようになり、京の都は「題目の巷」と称されるまでになるのである。法華宗は町衆ばかりではなく、公家にも武家にも浸透していったのである。まさに「正法圏」が樹立されようとしていたのである。そうしたなか「正法圏」を自衛すべく町衆の信徒によって法華一揆が結成され、法華門徒でもある町衆による自治が確立されることになる。法華一揆が歴史の表舞台に華々しく登場するのも天文元年のことであるが、それ以前に既に結成されていたと考えた方が妥当だろう。天文元年八月上旬、山科本願寺を一大根拠地とする一向一揆法華衆、即ち法華一揆を攻撃するのではないかという噂が将軍も管領も不在の「題目の巷」に流れるのである。
堀川通を渡って妙蓮寺に出た。本堂前の御会式桜は日蓮が入滅した十月十三日前後から咲き始め、新年を跨いで釈迦が生れた四月八日頃に満開になるという珍しい桜だそうだ。この妙蓮寺は連歌師・宗祇が「余の花はみな末寺なり妙蓮寺」と讃した妙蓮寺椿や酔芙蓉でも名高いそうだ。また、長谷川等伯一派の障壁画を公開している。実は、私たちは妙蓮寺で初めて、たった一人とはいえ私たち以外の観光客に出会うことになった。あだしごとはさておき、寺伝によれば妙蓮寺の開基は日像に帰依した酒屋の柳屋がその邸宅に一宇を設け、妙法蓮華寺を称したのが起源とされているが、その後衰退してしまう。これを妙蓮寺として再興したのは応永年間(一三九四〜一四二八)に教義をめぐって妙顕寺を離れた日慶による。次に訪ねた本隆寺も長享二年(一四八八)に日真が教義上の対立から妙顕寺と袂を分かって建立している。このように法華宗(=日蓮宗)の京都における歴史は分派を繰り返すエネルギーによって先細るのではなく、そのことによって逆に室町初期には妙顕・妙満・妙覚・立本・本能・妙蓮の六分派を成立させ、更には応仁の乱が勃発する前年の寛正七年には寛正の盟約を成立させ一味和合を約したこともあって遂に二十一本山を数えるまでに厚みを増してしまうのである。
本隆寺を後にした私たちは日親が辻説法を行った一条戻り橋まで歩いて出て一日目の予定を終了した。途中、清明神社の観光客でひっきりなしに賑わう繁盛ぶりを目の当たりにしたが、冒頭で紹介した手之内の寺院関係者の言にならっていえば、清明神社などは「宣伝の上手な神社」ということになるのだろう。
二日目もまた地下鉄に乗ることから始めた。東野駅で降車した私たちが向かったのは山科中央公園。この公園に「寺中広大無辺、荘厳ただ仏国の如し」とまで評された山科本願寺の土塁(=土居)が現存しているのだ。山科本願寺西宗寺を西端に、北端を安祥寺中学校に、山階小学校を東端にして、国道一号線と東海道新幹線を挟むように東西八百m、南北一kmに及んだ寺院というよりも城塞そのものであった。武装する本願寺戦国大名に他ならなかった。土塁は公園の端っこにあった。高さは二〜三m。土塁の上に立ってみた。そこは散策できるようになっているのだ。隣接するマンションの三階、四階に相当する高さを感じる。堀の底面にあたるマンション側の土地が低いこともあって七〜八mに達するのである。山科本願寺は、こうした土塁に守られながら、寺坊や商家が立ち並ぶ寺内六町を形成して、繁栄を謳歌していたのである。
亨禄五年(一五三二)六月十五日、本願寺は三万という一向一揆の大軍を率いて河内守護・畠山義堯を攻め、義堯を自刃に追い込む。その五日後には十万に膨らんだ一向一揆の大軍が堺を包囲、三好元長法華宗寺院・顕本寺で自害に追い込む。それは管領細川晴元の依頼によるものであった。晴元はもともと阿波の三好元長に担がれて管領の座についたが、元長の存在が疎ましくなっていたのである。ところが、三好元長を滅ぼしても一向一揆の蜂起は収まらなかった。七月十六日に大和の奈良で一向一揆が蜂起し、興福寺を襲撃し、僧坊を悉く焼き尽くしてしまう。奈良での一揆本願寺法主・証如の与り知らぬものであった。一向一揆は暴走を始めたのである。慌てた証如は静止命令を出すが、暴走をやめる気配はなかった。七月二十九日、後奈良天皇によって年号が天文に改元される。一向一揆の次なる標的は?洛中の法華衆だという風聞が、こうして流れたのである。証如を始めとした本願寺の指導層からすれば「天文の錯乱」に他ならなかった。細川晴元一向一揆鎮圧を決意して、京都の顕密諸派に軍勢督促をした。晴元が最も期待したのは法華一揆の武力であった。
地下鉄・御陵駅を降りて、なだらかな坂道を東へ進む。琵琶湖疎縁に朱色のコンクリート橋が架かっている。この橋が本圀寺の山門と繋がっているのだ。もともとは本国寺と言ったが、江戸時代に徳川光圀の外護を受けたことから本圀寺と改めた。本圀寺が天智天皇山科陵の東に当たるこの地に移転してきたのは昭和四十六年(一九七一)のこと。その境内に足を踏み入れると、誰もが黄金色の輝きに驚かされるだろう。中門の両側には黄金の阿吽像、屋根には金の鯱、前庭には金色の灯籠、弁財天の鳥居も、大梵鐘もゴールドという金ピカ寺院なのである。こうした自己主張の強さは日蓮系の宗派に相応しいのかもしれない。京都で大本山を名乗っている日蓮宗の寺院は妙顕寺と本圀寺の二つだけである。
天文元年八月七日、革堂や六角堂の鐘が打ち鳴らされ、六条堀川の本国寺には続々と下京の町衆が続々と集結して来た。そこには「晴元の衆」も加わっていた。当時の本国寺は東西二町、南北六町にわたる広大な寺領を持ち、百を超える塔頭を従え洛中に二十一を数えることになった法華寺院のなかで最大を誇っていたのである。こうして本国寺に結集した法華一揆は「晴元の衆」であった山村正次に率いられ「打廻」を行って、京都の本願寺教団の寺院を次々に破却していったのである。八月十二日、法華一揆は近江守護・六角定頼の軍勢と連合して大津の顕証寺を陥落させ、遂には細川晴元、六角定頼、法華一揆の三万に及ぶ連合軍で山科本願寺を包囲してしまう。八月二十三日、本願寺攻撃の火蓋は切られた。当初、本願寺は動揺もなく寺内町を守っていた。しかし、六角方の謀略に嵌まって、早くも八月二十四日に炎上。
この法華一揆一向一揆の「戦争」を一向一揆が革命=善であり、法華一揆が反動=悪であるかのように単純化して考えてはなるまい。一向一揆を農民闘争として評価する歴史学の立場からすると、そのように図式化してしまう傾向があるようだ。しかし、一向一揆にも、法華一揆にも革命(性)と反動(性)は同居していたのではないだろうか。町衆が結集した法華一揆は確かに細川晴元からの軍勢催促状に応じる形で蜂起したのであり、それは自立的な蜂起ではなかった。今谷明が『天文法華の乱』で指摘しているように「晴元政権の走狗となり、ピエロ的な役割を演じてきたことは否定しがたい」だろう。だが、本願寺との戦争後、その軍事力を背景にして地子不払運動を展開して、京都に更なる自治の花を咲かせることになったのである。自治=「集会の衆」を担ったのは、一方で法華の衆でもあったのである。法華一揆は「畿内の諸公事を評判」するまでに「政治」に関与していったのである。
更に言うならば、一向一揆の主体を農民、法華一揆の主体を商人=都市民という短絡的な図式もそろそろ捨て去らなければなるまい。興福寺を攻撃し、細川晴元を戦慄せしめた奈良の一向一揆を率いたのは奈良の有力町衆に他ならなかった。奈良の町衆は本願寺に帰依していたのである。また山科本願寺寺内町の「洛中と異ならず」と称された繁栄にしても、一向一揆を農民闘争としか見ない歴史観では説明しきれないはずである。一向一揆もまた法華一揆同様に金融資本であり、流通資本でもあったというところにもやはり革命(性)と反動(性)の同居を見るべきではないのだろうか。そして、経済資本ということでは、比叡山延暦寺も巨大な存在であり、だからこそ三すくみの対立が生じたのである。京都における「資本主義」の覇権を誰が握るかの「戦争」が法華一揆一向一揆の間で戦われ、今また法華一揆比叡山の間で戦われることになるのである。
松ヶ崎。地下鉄の松ヶ崎を東口で降りて涌泉寺を訪ねた。地理的に言えば松ヶ崎は比叡山の西麓に当たる。当然、山門の影響が強かった地域であり、叡山三千坊の一つに数えられる観喜寺があったと言われている。日像によって法華宗が京都に伝えられると、観喜寺の実眼は寺ごと法華宗に改宗し妙泉寺と号するようになった。そして松ヶ崎の全住民も法華宗に改宗したと言われている。しかし、現在、洛外において法華宗の一大拠点となった妙泉寺はこの地にない。大正七年(一九一八)、松ヶ崎小学校の敷地拡張にともない、妙泉寺は本涌寺と合併することになり、それぞれの寺名から一字ずつ取って涌泉寺を名乗るようになったのである。涌泉寺は本涌寺のあった場所に置かれた。本涌寺は天正二年(一五七四)に法華宗の僧侶養成のための学問所として創建されている。もっとも、この頃の法華宗は山門に妥協し、牙を抜かれた存在となっていたはずである。
松ヶ崎城があったと推定されているのは松ヶ崎大黒天のあたり。松ヶ崎大黒天は正式には妙圓寺といって日蓮宗の寺院なのだが、寺伝によれば本尊の大黒天は伝教大師の作であり、日蓮が開眼したものと言われているそうだが、こうした寺伝が成立したのは法華宗法華一揆に結集するような牙を抜かれてからのことであったのではあるまいか。ここから比叡山法華一揆の戦争は始まったのである。先に仕掛けたのは法華一揆。天文五年七月二十二日卯の刻、法華一揆は松ヶ崎城を占拠する。緒戦において法華一揆は健闘している。しかし、山門には六角軍が加勢している。しかも、一向一揆との「戦争」と違って細川晴元配下の指揮もない。加茂川を挟んで向かい合った双方の軍勢だが、膠着状態が続いた。六角の調停で和議が結ばれそうだ。そんな噂が京の町に流れる。法華一揆の側に気の緩みが生じる。その隙を山門・六角連合軍は見逃さなかった。七月二十七日のことである。鞍馬口、大原口、粟田口などから総攻撃が始まった。上京が炎上する。この日、二十一本山のうち焼け落ちなかったのは本国寺だけだったが、翌二十八日に陥落。もちろん松ヶ崎集落も既に全焼していた。
松ヶ崎は八月十六日夜に行われる五山の送り火では「妙法」の文字を燃やすことで知られている。この送り火の後、午後九時頃から題目踊りが始められる。太鼓のリズムに乗って団扇を上下させながら輪になって踊るのだが、日本最古の盆踊りと言われている。法華一揆に結集するようなエネルギーはこのようにして馴致されてしまったのかもしれない。
堺に「亡命」した法華宗が京都への帰還を許されたのは天文十一年(一五四二)十一月十四日のことである。後奈良天皇が勅許の綸旨を下したのである。しかし、山門は法華宗に対して、「叡山の末寺たるべく、諸寺指揮に従うべし」と難題を突きつける。法華宗は六角定頼に賄賂を差し出し調停を依頼。法華宗比叡山の末寺になることは逃れたが、毎年山門に千貫文の銭を上納することや他宗への誹謗を禁じられるなど、本来の教義からすれば到底受け入れ難い条件を呑まされてしまう。法華宗の側からすれば屈辱的な「和議」が結ばれたのは天文十六年(一五四七)六月十七日であった。この年、やがて比叡山を焼き討ちにする織田信長が初陣を飾っている。信長はまだ十四歳の少年である。
ところで、「伏見」という居酒屋をご存知だろうか。京阪三条を降りて三条通を東へ百mの好立地にあり、特大サイズの伊勢海老や鮑が時価とはいえ信じられないほど安い値段で食することができる居酒屋として地元では名の知られた店である。野菜天などは三百円であるにもかかわらず、二人前以上の分量の山盛りで出されて来るのだ。しかし、何よりも圧倒されるのが、コの字型のカウンターの内部をテキパキと動き回る「名物おかみ」。こちらが何を頼もうか思案していると「今日はかつおのたたきにしとき」とか「野菜天は名物だから食べとき」といった有無を言わせないような口調で私たちのメニューを矢継ぎ早に決めてくれる。飲み始めた後も「今日はさんまたべとかないと」など次から次へとアプローチが続く。この「名物おかみ」の前のめりで、アグレッシブな接客に「クルマの運転の荒い」京都人気質の一端を私たちは垣間見る。そうした激しい京都人気質が形成されるに際して大きな役割を果たしたのは法華宗(=日蓮宗)ではなかったのかと私たちはガイドブックに決して掲載されることのないこの小さな旅を通じてつくづく思うに至ったのである。