大阪地検特捜部証拠改竄事件の判決 特捜幹部には執行猶予がつきオウム女性信者に執行猶予がつかないのは何故なのだろうか?新聞の社説は何故特捜部存続を前提にしているのだろうか?

大阪地検特捜部による証拠改竄事件で当時の特捜部長と特捜副部長に大阪地裁が有罪を言い渡した件に関して、どの新聞も社説を掲載した。懲役1年6カ月執行猶予3年という判決だったが、オウム真理教の幹部をかくまったとして犯人蔵匿罪などに問われた女性信者の判決は懲役1年2ヵ月で執行猶予がつかなかったことを私は思い出した。懲役だけを比べれば特捜部長、特捜副部長のほうが刑としては重いのだが、執行猶予がつき、女性信者は懲役1年2ヵ月であっても実刑判決である。女性信者はお勤めを果たさなければならず、特捜幹部は自宅でのうのうと暮らしていられる。何か変だなと感じるのは私だけであろうか。私は特捜幹部に執行猶予がつくのであれば、オウム真理教の女性信者にも執行猶予がつくべきだと思う。彼女の判決文は「真摯に反省し、既に教団とのかかわりや精神的帰依はなく更生が期待できる」としながらも、指名手配となっていたオウム真理教の幹部が「長期間捕まらなかったのはひとえに斎藤被告の行為のためで、極めて悪質」と判断したため実刑となったわけだが、検察の犯罪こそ「極めて悪質」なものではないのだろうか。しかも女性信者は自首しているし、裁判でも涙ながらに「償うべき罪はオウム信者だったこと。被害者や社会の皆様におわび申し上げます」と語り、自らの罪を深く反省した。これに対して特捜幹部の二人は自首するどころか、裁判では無罪を主張するというように罪の自覚すらなかったのである。特捜幹部に対する判決文に「検察組織への社会の信頼を大きく損ねた責任は重いが、組織の病弊が生み出したともいえる」とあるように「組織の病弊」が生み出した犯罪だから、「個人」は守られたということなのだろうか。もし私が裁判官であれば特捜幹部の二人には執行猶予をつけず、女性信者には執行猶予をつける判決を言い渡すに違いない。いずれにせよ、この二つの判決の合間から司法権力が演じた「政治」が見え隠れするように思えてならないのである。
新聞の社説も当然のことながら、大阪地検特捜部による証拠改竄事件の判決を取り上げた。さすがに特捜幹部を庇うような論調は見当たらなかったし、逆に執行猶予がついたことを問題にした論調もなかった。ただし、陸山会事件に触れているかどうかでは割れた。

事件の背景にあるのは、威信や組織防衛を過度に重視する大阪地検特捜部の風潮である。判決は、「中央省庁の局長を逮捕した以上、有罪を得なければならないという偏った考え方が根付いていた」との見解を示している。
こうした組織体質こそが、無実の厚生労働省元局長、村木厚子さんを無理やり有罪にしようという異常な捜査を生んだのだろう。4月2日付読売新聞「改ざん隠蔽事件 検察組織の病弊断罪した判決」

一方で最高検は、部長が村木さんの摘発を強く求め、捜査に消極的な意見を嫌ったことが改ざん事件の背景にあると指摘してきた。
だが、個人の資質のせいにして済ませられる話ではない。問題は検察の体質そのものにもあったのではないか。
不都合な証拠に目をくれず、あらかじめ描いた構図に沿って捜査を進め、否認しても聴く耳をもたない。村木さんの冤罪(えんざい)を生んだ背景には、そんな捜査手法があった。4月1日付朝日新聞「特捜部長有罪―検察の体質も裁かれた」

「検察の病弊」が生み出したという意味では小沢一郎陸山会事件でも東京地検特捜部の検事が、捜査報告書に虚偽の記載をしたという一件も同じであるはずなのだが、読売も、朝日も読売巨人軍の巨額契約金問題では鋭く対立しつつも、陸山会事件については一行も触れていないという点では同じである。朝日新聞は「検察の体質そのものが裁かれたと受け止めるべきだ。大阪だけの話ではない」とまで書きながら陸山会事件の「り」の字も出て来ないというのは、どういう料簡なのだろう。朝日新聞や読売新聞は裁判所と似たり寄ったりの「政治」をここで演じているに違いあるまい。これに対し毎日新聞日本経済新聞の社説は陸山会事件について触れていた。

陸山会事件では、東京地検特捜部の検事が、捜査報告書に虚偽の記載をした問題が表面化した。また、同事件で元秘書の供述調書の大半の証拠採用を却下した決定で、東京地裁は組織的に違法・不当な取り調べが行われていたと指摘した。
4月1日付毎日新聞「元特捜幹部有罪 検察全体に反省迫った」

こうした体質は一検事や一部門にとどまる問題ではない。実際、大阪地検の事件の後にも、小沢一郎民主党元代表が強制起訴された裁判で、東京地検の検事が作成した捜査報告書に事実と異なる記載があったことが判明している。
4月1日付日本経済新聞「検察改革問う『特捜部の犯罪』」

小沢一郎の一件に触れるかどうかは別にして、検察は改革しなければならないという点ではどの新聞の社説も共通している。地検特捜部が存続することを前提に書かれているわけだ。しかし、私たちの民主主義にとって本当に地検特捜部は必要なのだろうか。地検特捜部など必要ないという社説を私などは読みたいのだが、そういう社説が出てこないのは、社説の言論は基本的に「イエス・バット」の論理構造に収まるように書かれているからなのだろう。そういう意味で新聞は国家のイデオロギー装置の役割を忠実に果たしているということなのである。