昭和天皇「人間宣言」の死角―現人神と皇孫の間に(旧稿)

天皇人間宣言」は゛人間宣言゛ではない

 さまざまな誤解が天皇(そして皇室)を包み込む。いつの時代においても、どの天皇においても。しかし、誤解され続けながらも皇位は継承され続け、現在に至る。天皇制は歴史的時間のなかで、あらゆる解釈を受け入れながらも、同時にあらゆる解釈を拒んでいるかのようである。言うまでもなく、現在においてなおさまざまな誤解が天皇を、皇室を包み込む。
 どこからでも誤解の迷路に入っていくことはできるのだろうが、取り敢えず私たちは時計の針を一九四六年(昭和二十一年)元旦に戻して、ここを誤解の迷路への入り口とすることにしよう。この日、昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を発表する。この詔書は一般的には天皇の゛人間宣言゛と理解されているものだ。現人神であった天皇が人間天皇であることを宣言し、ここから敗戦日本の復興が始まる。そうした物語の起点となる詔書である。
 その際、詔書の次の部分が引用されることになるだろう。

「朕ト爾等国民トノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以ッテ現人神トシ、且日本国民以ッテ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」
 天皇自らが天皇を現御神=現人神とすることは架空なる観念に基づくものであるとし、天皇=現人神であることを明確に否定している。そのようにマスメディアは報じ、そうしたマスメディアの報道を介して、この詔書は゛天皇人間宣言゛として、以後理解されていくことになる。
 そこから、一九四六年一月一日以前の天皇は神であり、わが国の近代は天皇を神として戴く明治維新によって始まったのだという理解を招き寄せることになってしまう。こうした理解に立脚すると、現人神としての天皇の位置は明治維新王政復古の大号令に始まり、一八八九年(明治二十二年)の大日本帝国憲法の発令によって不動のものになるという゛歴史゛を紡ぎ出すことになる。
 村上重良の『天皇の祭祀』などは、そうした思考の典型例ということができるだろう。

「近代天皇制国家は、復古の名のもとに、日本の歴史かつてなかった強大な天皇の権力と権威を確立した。近代天皇制における天皇は、世俗的な政治上、軍事上の最高権力者であるとともに、宗教上の最高権威者でもあった。天皇権は、この両面を複合し、天皇の一身において体現することで成立していた。その形成は、明治維新を告げる王政復古の大号令に始まり、二十余年を経て、一八八九年(明治二十二年)の紀元節、二月十一日に行われた皇室典範大日本帝国憲法の発令によって完結した。
 天皇権の確立によって、天皇は生きながら神である現人神という超人間的存在とされるにいたった」

しかし、そもそも゛天皇人間宣言゛として理解されるようになった詔書の核心部分に゛人間゛という二文字は刻まれていない。
天皇を現御神=現人神とするのは架空なる観念だ」と昭和天皇は述べているに過ぎないのである。
さらにこの詔書の冒頭は「茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給エリ」と始まり、そのうえで、昭和天皇五箇条の御誓文のすべてを羅列している。すなわち、昭和天皇はは一九四六年元旦の詔書では五箇条の御誓文を再認識しているのである。
この再認識を根拠に、天皇を現人神とするイデオロギーを架空なる観念として退けているのである。昭和天皇からすれば自身も、明治天皇も、大正天皇も現人神ではないのだと言いたかったはずである。
新田均の『「現人神」「国家神道」という幻想』によれば「私は政教関係でさまざまな近代史料を読んできたが、明治期の文献では『現人神』という用語は偶にしか見かけたことがない」という。そこで新田は「絶対的な天皇観」が有力になった時期を小学校の「修身」と「日本史」の教科書の変化を追うことで明らかにしようとする。
 その結果、「かくのごとき御盛徳の下に、わが国民は、天皇を現御神とも国の御親ともあふいで、身命をささげて世々忠誠をはげんで来た」と、日本史の教科書に初めて天皇を現御神=現人神とする記述が登場するのは一九四一年(昭和十六年)のことであり、また「我等国民が神と仰ぎ奉る天皇は、天照大神の御裔であらせられ、常に天照大神の御心を御心として国をお治めなられます」と修身教科書に記されるようになったのは一九三九年(昭和十四年)になってからのこと。
 つまり、詔書で否定された゛架空ナル観念゛が日本を覆い尽くしたのは、昭和十年代半ばから敗戦までの、ごくわずかな時期に限定されたものだった。
 ちなみに、一九〇三年(明治三十六年)の日本史教科書では「天照大神はわが天皇陛下の御祖先にてまします」としかない。
 ここで注意すべきは、昭和十年代になって初めて登場した時点でも、天皇が現御神=現人神であるという教科書の記述は、必ずしも天皇絶対神であるとか、全知全能の神であることを意味しない、そう当時の文部省は言い切っているのである。一九三七年(昭和十二年)年の文部省通達はこうだ。

「この現御神、あるいは現人神と申し奉るのは、いわゆる絶対神とか、全知全能の神とかいうのが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民、国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである」

 山本七平が『裕仁天皇の昭和史』のなかで評価するように、一九四六年(昭和二十一年)元旦の詔書を゛人間宣言゛と言うのであれば、この文部省通達がすでにこれを行っているのである。
 そして、このことが同時に何を意味するのかと言えば、天皇の゛人間宣言゛と言われる一九四六年元旦の詔書においても、天皇が皇祖皇宗の神裔であることを否定していないといういうことである。

天皇独裁゛を拒み続けた昭和天皇

 昭和天皇の侍従をつとめた木下道雄の『側近日記』によれば、占領軍側から示された゛人間宣言゛の案では、天皇が神裔であることを否定する内容であったという。これに対して、木下は現人神であることを否定する内容に修正させたのだという。だとすれば、その後、゛人間宣言゛と言われることになった詔書を否定するような詔書が公表されていない事実を考えるのであれば、現在も天皇は神の裔なのである。
 現在に至るも、明治三十六年の日本史教科書に記されている通りである。戦後の象徴天皇制においても、天皇=神孫論は生きているのである。昭和天皇は一九四六年(昭和二十一年)元旦の詔書天皇の宗教的な任務と権威を守ることをこころみたのである。さらに誤解を恐れずに言えば、神裔であることを否定しなかった昭和天皇は敗戦という事態にあっても古代にさかのぼる天皇の゛統治権゛を手放してはいなかったということでもある。
 だからこそ、「日本国憲法公布記念式典において賜った勅語」として、憲法前文のそのまた前に、
「この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確定されたのである」
 という昭和天皇の言葉が置かれることになったと考えることはできないだろうか。
 ここで天皇が言わんとしている主旨とは自分は枢密顧問の諮詢を得て、帝国議会の議決に基づき、大日本帝国憲法を改正して、日本国憲法を公布するということである。
 もし、昭和天皇が、゛人間宣言゛において神裔であることまでも否定してしまっていたら、このような言葉が日本国憲法を飾ることはなかったであろうし、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権が存する日本国国民の総意に基づく」という条文が、何よりもまず第一条に置かれることは決してなかったのではあるまいか。昭和天皇は、大日本帝国憲法下の立憲君主として憲法を改正したわけだが、この立憲君主という゛機関゛は、あくまで゛神の裔゛という権威を前提に存在しているのだ。
 単純に日本国憲法アメリカからの一方的な押しつけ憲法であると切り捨ててしまうならば、こうした側面を見えなくさせてしまいかねない。
 天皇を゛権力なき権威゛であり゛国民の全体性の表現者゛であるとした和辻哲郎は、日本国憲法によって国体は変更されたという憲法学者の佐々木惣一に対して、国体は変更などされていないと批判していることを思い起こしてもよかろう。和辻の天皇観は、先に紹介した昭和十二年の文部省通達にも強い影響を与えているように思われる。

「斉藤(実)内閣当時、天皇機関説が世間の話題となった。私は国家を人体に譬え、天皇は脳髄であり、機関と云ふ代りに器官と云ふ文字を用ふれば、我が国体との関係は少しも差し支えないのではないかという本庄(繁)武官長に話して、真崎(甚三郎=教育総監)に伝えさした事がある。真崎はそれで判ったさうである。
 又現神(現人神)の問題があるが、本庄だったか、宇佐美(興屋)だったか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない、さういふ事を云われては迷惑だと云ったことがある」
 『昭和天皇独白録』のなかにこのような記述がある。昭和十年ころのことと思われるエピソードであるが、生物学者でもあった昭和天皇らしい言い回しで天皇機関説を擁護し、天皇を現人神に位置づけられてしまっては迷惑であると、昭和天皇自身が述べていたのである。
 そういう意味からすれば、昭和十二年の文部省通達において、゛人間宣言゛がすでに行われていたとしたなら全く不思議のないことである。そうした昭和天皇であればこそ、天皇機関説が排撃されてもなお、現人神として天皇親政=天皇独裁を実現するのではなく、徹底的に一貫して゛機関゛であり続けようとしたのである。議会が国体明徴決議を行っても、昭和天皇立憲君主であることを微動だにしなかったのである。
 つまり、天皇独裁を議会が主張し、天皇自身はこれを頑として拒否するという途方もない゛ねじれ゛が生じてしまったのである。山本七平の『裕仁天皇の昭和史』によれば、それは「世界史に類例がない不思議な現象」であった。なぜなら「制限君主制の下で、この制限を破ろうとするのが君主で、破らせまいとするのが議会である」のがヨーロッパの歴史では普通であるからだ。゛閣議の決定゛の上奏に際し、天皇が拒否権を発動したケースは皆無なのである。藤田尚徳の『侍従長の回想』には、昭和天皇の次のような言葉が紹介されている。少し長いが引用しよう。
 「……この戦争は私が止めさせたので終わった。それが出来たくらいなら、」なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問は一応の筋がたっているようにみえる。如何にも、もっともと聞こえる。しかし、そうれはそうは出来なかった。
 申すまでもないが、我国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任を負わされた国務大臣がある。
この憲法上明記してある国務大臣の範囲内には、天皇はその意志によって勝手に容喙し干渉し、これをまた制肘することは許されない。
 だから内冶にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議を尽くして、ある方策を立て、これを規定に遵って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。
 もし、そうぜずに、私がその時の心持ち次第で、ある時は裁可し、ある時は却下したとすれば、その後責任者はいかにベストを尽くしても、天皇の心持ちによって何となるか分からないことになり、責任者として国政に就き責任を取ることが出来なくなる。
 これは明白に天皇が、憲法を破壊するものである。専制政治国ならばいざ知らず、立憲国の君主として、私にはそんなことはできない」

 こうした昭和天皇立憲君主としては一級の自己規定があったにもかかわらず、軍部は天皇を現人神にまつりあげ、政治は軍部の暴走を立憲君主制を盾にして抑止するどころか、大政翼賛会を結成し、この暴走に積極的に加担してしまう。
 大正デモクラシーの自由な空気を経験しているはずの国民も、教科書に「我等国民が神と仰ぎ奉る天皇」と書き記すようになる以前から現人神イデオロギーに(大衆から孤立した一部のインテリを別にすれば)絡め取られてしまい、熱狂してしまうのだ。昭和天皇の意思とは別に、昭和天皇といす生身の存在を飛び越えてしまうのである。まさしく坂口安吾が『堕落論』のなかで指摘しているように「天皇制は天皇によって生みだされたものではない」のである。そうした天皇制は竹内好が言うように一木一草に宿るのである。

゛神の裔゛だからこそ゛象徴=機関゛でいられる

 昭和天皇の゛正気゛と゛国民の゛熱狂゛との間の乖離は、天皇のイメージをめぐる乖離に他ならないのである。
 敗戦後、国民はこうした乖離を埋めあわせることに果たして成功したのであろうか。一九四六年(昭和二十一年)元旦の詔書において、昭和天皇は戦前と変わることなく゛正気゛であった。このことは間違いあるまい。
 しかし、国民の側はこの詔書をマスメディアの報道通りに゛天皇人間宣言゛として受け入れてしまう。現人神イデオロギーを簡単に受け入れてしまったように、である。国民もまた゛熱狂゛を温存したまま戦後という空間に突入してしまったのではないだろうか。
 この゛熱狂゛は皇太子のご成婚を機に再び爆発する。昭和天皇が゛非転向゛であったばかりか、国民も実は、その精神的な基盤において、゛非転向゛であったのである。少なくとも昭和天皇の「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」という言葉は、昭和天皇にとっては一貫して゛常識゛であったとしても、国民にとって、天皇はそれ以上の存在だったのである。
 国民がこの詔書の意味を正確に読み取れなかったのも、致し方ないことだったと言うべきであろう。これを゛天皇人間宣言゛とすんなり受け入れた国民であるが、国民の無意識下に天皇を思う゛心情゛は流れ続けることになったということだ。
 この゛心情゛は、この゛熱狂゛は、個人においても爆発することがある。゛皇太子のご成婚゛を経て、一九六八年のこと。水俣病患者である村野ハマノのもとを厚生大臣・園田直がおとずれる。厚生大臣としては初めての来訪である。村野ハマノは、大臣に対して、どう反応したか。彼女は「天皇陛下バンザイ!」と叫び゛君が代゛を歌い出すのである。そうすることが、水俣病を放置したままの゛国家゛に対する最大の゛抵抗゛であったのだろう。二・二六事件青年将校同様に、天皇の゛大御心゛に彼女は賭けたのである。たった一人ではあっても、また病床にあっても、これはまごうことなき゛蹶起゛に他ならなかった。
 私たちは戦後六十年を迎えようとしている。戦前を経験した世代は社会の後景に退くばかりでなく、次々にこの世を旅立って行きつつある。
 戦前を知らない世代にとっては、疑いもなく天皇を゛人間゛としてしか了解しなくなりつつある。雅子妃の病気に際しても、皇位継承問題に際しても、天皇を゛人間゛としか了解しないことを前提とした゛言説゛が、マスメディアを介して大量に流布されている。
 しかし、天皇は今も゛神の裔゛なのである。
「神聖ニシテ侵スヘカラサル万世一系ノ」゛神の裔゛であればこそ、日本国民統合の象徴としての役割に耐えられるのである。
 この役割に耐えられる人間は他に誰もいない。わが国の創世神話に連なるのは、天皇家をおいて他にないのである。だからこそ゛神代゛を歴史として捉えない限り、天皇(制)を理解できないのである。天皇は誤解され続けるだけなのである。
 しかし、天皇を理解できる場所とじゃ、天皇制を理念的に解体してしまう場所であることも覚悟しなければなるまい。次に掲げる吉本隆明赤坂憲雄の対談『天皇制の基層』で吉本が語った言葉は重い。

「けれども、僕は神話と歴史とが違うんだというのは嘘だと思います。じゃあ、神話と歴史とはどういう関係でどういう構造で同じところがあるかというと、それぞれ個別普遍性みたいなものがあって、細部をきちっとやっていかないとなかなかうまくいえないだろうと思います。原則的に神話のなかに歴史の反映がないなんてこおてゃありえない。それがどの程度かとか、どの構造でというのは別にして、歴史と神話を分離するのはおかしいですし、それから、一般的に神話と接続する歴史というのは、支配的な王家の歴史が中心となって神話を結びつけられるわけですね。そこで今度はもうひとつ問題があって、神話と王家が支配体制をつくり上げる前の村落ないし部族社会でもいいんですけど、そういう社会で流布されていた民話と神話とはそんなに分離できない問題なんです。つまり、一定の媒介がどういう構造かということは、それぞれでありうるけれども、媒介の構造をつけていけば神話と民話は連続している」

 吉本にとって天皇制の本質的な問題のひとつが「日本列島の住民、つまり常民大衆の宗教的な信仰のかたちと、どうやって天皇制が接ぎ木したかという問題」なのである。特攻隊世代に属する若き吉本は、天皇が現人神であることを科学的に信じていなかったにもかかわらず、天皇は吉本にとって゛ひとつの<絶対感情>の対象゛であり、゛徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考え方を抱いていた゛のである。
 二・二六事件の首謀者として処刑された磯辺浅一と同質の゛叫び゛を共有しているとさえ言えるほどの、吉本の深い思い込みである。
 その場所から吉本隆明は言葉を搾り出す。「僕は象徴天皇制という戦後憲法の規定を承認しない、だから戦後法に反対である」と。

 一九三九年(昭和十四年)、天皇機関説排撃のイデオローグでもあった蓑田胸喜は、雑誌『原理日本』で『津田左右吉の大逆思想』という論文を発表する。
 津田が『古事記』『日本書紀』の文献的な研究によって、神武天皇から仲哀天皇に至るまでの十四代にわたる記述は゛架空譚゛としたと、蓑田は津田の資料批判を理解し、これを゛思想的な大逆行為゛であると批判し、さらには検事局に告訴する。
 第一審判決は禁固三ヵ月の有罪。不思議なことに第二審は免罪となるのだが、この告訴によって津田は太平洋戦中期に沈黙を強いられることになる。
 この沈黙は戦後、昭和天皇の一九四六年(昭和二十一年)元旦の詔書を追うかのように破られることになる。『世界』一九四六年(昭和二十一年)三月号に『日本歴史の研究に於ける科学的態度』を発表する。ここで津田は皇国史観の非科学的な姿勢を批判し、左翼や進歩派の大喝采を浴びることになる。
 しかし、その翌月、やはり同じ『世界』誌上に『建国の事情と天皇万世一系の思想の由来』を発表し、これ以降津田は「専ら舌鋒をマルクス主義にむけてきびしい批判を展開するとともに、天皇制を熱烈に擁護する論陣を張る」(網野善彦)ことになる。
右の皇国史観にも、左のマルクス主義にも反対するとともに、戦後においてさえおそらくは誤解され続けている昭和天皇を、天皇制を擁護するために、である。津田は「民主化に対応しながら、非政治化されたかたちで存続を試みている天皇制を≪不親政≫の伝説を再発見=創造し、『国民の内部』へと埋めこむことで、積極的に擁護」(米谷匡史)したわけである。津田はこう言い放つ。

 「国民とともにあられるが故に、皇室は国民と共に永久である。国民が父祖子相承けて無形に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである。国民みづから国家のすべてを主宰すべき現代に於いては、皇室は国民の皇室であり、天皇は『われわれの天皇』であられる。『われわれの天皇』はわれわれが愛さねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである」

 二〇〇四年。相変わらず皇室を誤解が包み込む。
 皇太子徳仁親王が雅子妃の体調について、゛キャリアや人格を否定するような動きがあった゛という雅子妃人格否定発言は、まるで゛平成の人間宣言゛であるかのように受け取られてしまう。その関連で―――本来、関連はないはずなのに皇位継承問題が騒がれる。
 皇太子もまた昭和天皇とは違った位相で゛政治的゛に孤立してしまっていると言うべきだろう。しかし、論壇なりを見渡してみても、一人の津田左右吉もいないではないか。知識人も国民も、天皇を、皇太子を゛人間゛としてしか了解していないようなのだ。
 例えば石原慎太郎は『特攻と日本人』(『文芸春秋』二〇〇四年九月号)のなかで言い切っている。「首相だけでなく、私はなんとか天皇陛下にも、象徴ではなく一人の人間として靖国神社を参拝して頂きたいと思います」と。
 繰り返し言う。天皇は神の裔である。今上天皇も、皇太子も、昭和天皇同様に゛神の裔゛である。゛神の裔゛であることによって゛象徴=機関゛なのである。天皇の言葉を、皇太子の言葉を、単なる゛人間宣言゛と誤解しては決してなるまい。
註 この原稿は2004年に発表したものです。