忘れられてしまった悲劇―第一大邦丸事件と第三清徳丸事件

自民党あたりの議員が竹島尖閣諸島の件で、領土ナショナリズムをがなり立てるのを聞くと嫌な気分になる。それは過去をなかったかのようにして叫ばれる偽者の「愛国」だからである。確かに昭和30年(1955)の保守合同以前の出来事ではあったが、やがて自由民主党に合同することになる保守政権のもとで日本人は射殺されたのである。
韓国が竹島を自らの領土に編入したのは1952(昭和27)年1月に行った李承晩大統領による「海洋主権宣言」で、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定したことによる。李承晩ラインの内側の漁業管轄権を一方的に主張するとともに、そのライン内に竹島もあった。韓国は李承晩ラインによって竹島を固有の領土としたのである。そんなときに起きたのが、第一大邦丸事件である。昭和28年(1953)2月4日のことだから、政府は第四次吉田内閣である。済州島で操業中の福岡の漁船である第一大邦丸と第二大邦丸が、韓国の漁船二隻を利用した韓国海軍によって「李承晩ライン」を侵犯したとして、銃撃、拿捕された事件である。韓国側の銃撃に際し、第一大邦丸の漁労長が被弾し重症を負ったが、この漁労長はロクな手当てもされることなく、韓国で息を引き取る。結局、済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる公海上で起きた事件であったことをアメリカが認め、朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令グリッチ少将が仲介に入って、李承晩が遺憾の意を表するとともに、第一大邦丸の釈放に応じた。しかし、こんな李承晩ラインが廃止されるのは、日韓基本条約が締結される昭和40年(1965)まで待たなければならなかった。その間、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人にのほるが、日韓基本条約によって李承晩ラインが廃止されても、韓国は竹島の実効支配をやめなかった。竹島を問題として棚上げし、竹島抜きの日韓基本条約を結んだのは佐藤栄作首相である。日本の罪なき民衆の生命と竹島を犠牲にして自民党政権日韓基本条約を締結したのである。ちなみにこれも忘れてはならないことだろう。自民党政権は日本人抑留者の返還と引き換えに、超法規的措置と言って良いだろう、犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を放免し、在留特別許可を与えている。何故、強制送還しなかったかといえば、韓国側が拒絶したからである。むろん、言うまでもなく日韓基本条約の締結は、この時点でクーデターによって大統領となった朴正煕の開発独裁政治を助けることになったのは言うまでもあるまい。更に言えば、朴正煕は日本の陸軍士官学校出身で、敗戦時には満州国軍中尉であった。
尖閣沖でも日本人は殺されている。第三清徳丸事件が起きたのは昭和30年(1955)3月2日のこと。保守合同の直前、第一次鳩山一郎内閣のときである。尖閣諸島魚釣島沖で中華民国の2隻のジャンク船が操業中の第三清徳丸に救助を求めてきたので、第三清徳丸は曳航すべく接舷したところ、ジャンク船から第三清徳丸に武装した2名が飛び移り、船長と船員合わせて2名を射殺したという事件である。悲劇は射殺に終らなかった。射殺を逃れるべく海に飛び込んだ船員7名のうち2海里離れた魚釣島まで泳いで辿りついたのは、3名に過ぎず、4名は海の藻屑として消えてしまったのである。生き残った船員の一人が3月4日付琉球新報で次のように発言している。

魚釣島西方約2 マイルの地点で2 隻のジャンク船が手真似で救助をもとめ、曳航を頼んだので私達の第三清徳丸はジャンク船に接近、曳航しようとしたとき2 名の兵隊風のものが私たちの船に乗りうつるやいなや船長を射殺、また伊野一男さんは相手に飛びついたがこれも直ちに射殺されてしまった。それで私たちは無我夢中で海に飛びこみ、2 マイル離れた魚釣島にのがれ、直ちに島の裏側で漁労中の第一清徳丸に連絡、その付近で漁労中の数隻の船にも危機を通報して石垣島に逃げてきました。他の4名はどうしていたかわかりません。双眼鏡で見たとき1隻は大安丸と書かれていました。

これは沖縄がアメリカから返還される前の事件であった。しかし、沖縄を統治していたアメリカは問題の解決に動かなかった。犯人が捕まることも、事件が究明されることもなかった。尖閣諸島を中国に奪われないためにも、アメリカとの同盟関係をもっと強固にする必要があるという声もチラホラ出ているが、アメリカ自らが沖縄を統治していた時代であっても、こうした悲惨な事件は起きたし、犯人は逮捕されなかったではないか。第三清徳丸事件で命を落とした6名の犠牲者は、アメリカに、当時の琉球政府に、また日本政府に見捨てられたのである。アメリカは日本人が沖縄を訪ねるに際しては、パスポートを用意させるなど、厳しくあたったが、尖閣諸島に出没する台湾の漁船には寛容であったのである。しかも、第三清徳丸事件が起きたのは中国も、台湾も領有権を主張しはじめる前の事件である。台湾の船舶が魚釣島に上陸し青天白日旗を掲げたのは昭和45年9月2日のことである。これも返還前の出来事である。アメリカは当てにならないということである。
政治家や知識人で竹島尖閣諸島に関して愛国的な言辞を弄しているからといって愛国者であるとは限らないということである。