角田美代子という「人間」について考える

 YOMIURI ONLINEによれば讀賣新聞は10月20日16時11分に発表した「『暴行しなければやられた』恐怖心から加担」で『週刊新潮』から「女モンスター」とか、「殺戮の女帝」と名づけられることになった角田美代子にかかわる記事で次のように書いている。

「意に沿わない言動をした者は仲間内でも制裁するよう仕向けられていた」とも言っており、県警は角田被告が仲間内の〈粛清〉を奨励し、「マインドコントロール」していたとみている。

人間関係が複雑で込み入っているだけに新聞やテレビの報道だけでは非常にわかりにくいのだが、角田美代子を頂点にした、これまた『週刊新潮』の言葉を借りれば「殺人カンパニー」は他人の家を乗っ取り、その家庭を外界から切断し(角田美代子を「専制君主」とする共同性が個人や家族の次元に侵犯していったということだろう)、カネも生命も奪ってしまうという犯罪を繰り返していたと思われるが、自らは手を汚さずに家族同士が暴力を振るいあうという地獄絵のなかで生命を奪っていった。こうした事態を指して讀賣新聞の記事は「粛清」という、左翼の内部テロを表現する言葉を使っているのだが、この記者が連合赤軍事件を念頭に置いている確信犯であることは想像に難くない。ちなみに1948年生まれの角田美代子は連続企業爆破事件で死刑が確定している大道寺将司と同じ年である。角田も「68年世代」に連なる一人である。連合赤軍永田洋子は角田より三歳年上である。
この記事はまた、被害者も加害者も角田美代子に絶対的に服従する様を「マインドコントロール」という言葉を使って説明しているが、当然、オウム真理教の引き起こした、いくつかの事件がこの言葉とともに蘇って来よう。オウム真理教が引き起こした様々な殺人も教祖・麻原彰晃は直接、手を下したわけではない。角田もそうである。角田は自らを中心に据えた共同体の内側に属する人間を自在に操った。
連合赤軍永田洋子は国家権力を打倒するためには、国家権力からの弾圧を押しのけて戦い切れるまでに「純化」した前衛党を建設する必要性を痛感し、真冬の山岳ベースに立て籠もり、仲間のひとりひとりにこれまでの革命家としてのあり方を総括させていったが、その際に仲間を殴ることこそが指導であり、援助であるという飛躍した正当化のもと、仲間を一人、また一人と死に追いやっていった。世の中を変えよう、良くしようという「正義」と何よりも生命が大切だということを理解できない「無知」がともに煮詰まりながら、「粛清」が繰り広げられた。「粛清」という語には「乱れや不正を取り除き、世の中を清らかにする」(『日本国語大辞典』)というニュアンスもあるが、確かに連合赤軍における「粛清」には、倒錯していたとはいえ、そうした「心情」の痕跡を見て取れないわけではない。
オウム真理教においても仲間が仲間を死に追いやる事件があったが、教祖・麻原彰晃の「マインドコントロール」とは、信者の真っ直ぐな、そして純粋な「信仰」に基盤に置いていた(そういう意味で麻原の宗教としての「深さ」は「マインドコントロール」などという安易な言葉では説明できるものではあるまい)。
しかし、角田美代子は永田や麻原とは似ているようでいて違う。新聞やテレビ、週刊誌で報道されている限りの情報しか私は持ち合わせていないにしても、角田美代子に「正義」や「信仰」の欠片も見ることはできない。狂おしいほど肥大化した「欲望」(カネに対する「欲望」であり、支配に対する欲望だ)が角田美代子を突き動かしていたとしか私には想像できない。
角田美代子には自分の「欲望」を「正義」や「信仰」として錯覚してしまうような隙もなければ、「性愛」に耽溺する弱さもなかったのではないだろうか。角田に倒錯はどんな意味においてもなかったのではないか。確かに永田や麻原に比べ、「権力」の及ぶ範囲は狭いし、小さいものであったが、小さく、狭いだけにその「権威」や「権力」、「優しさ」と「恐怖」は絶対的なものであり、その狭さゆえに煮詰まり、沸騰していったのである。エーリッヒ・フロムを念頭に置きつついえば、被害者は自由から逃走するマゾヒズムよりほかに選択肢がなかったのかもしれない。角田美代子の「権威」と「権力」を前にして無力感にさらされた者たちは積極的に加害者(=サディスト)として、あるいは被害者として服従するしか「生」を全うできないほどに「個人的自己」の「生」を根源的に歪められてしまった可能性があるのではないだろうか。その服従が俯瞰すれば人間的悲劇であるとともに人間的な喜劇でしかなかったとしても、角田の共同性の介入を許した家族の成員は服従を反復するしかなかったのである。
それは誤解を恐れずに言えば、角田美代子の人間的な大きさでもあろう。断るまでもないが、角田は「モンスター」でも何でもない。私たちと同じ一個の人間である、人間でしかない。しかも彼女には「正義」や「信仰」といった虚飾すらない。彼女を人間として認めず、積極的に人間から排除しようとする報道は、私に言わせれば「気分」にしか過ぎまい。「分析」を偽装した気分にしか過ぎない。「気分」に流され、熱狂することで、角田美代子を忘れようとするのである、この社会は、この社会に暮らす私たちは。自分に小さな角田美代子を見てしまうのが怖いのである。角田美代子ほどの「突出」はないにしても、人は誰でも角田美代子のミニチュア版には簡単になれるのだ。職場で、家庭で!私にとって角田美代子にかかわる報道のどれもこれも後味が悪いのは、このためである。そう角田美代子という存在は「68年世代」が築き上げてきた「ニューファミリー」なんぞマスコミの作り上げた幻想にしか過ぎなかったことの最終的な告発者なのである。