司法権力のあり方は今のままで良いのか?

東電OL殺人事件で15年の長きにわたって「犯人」扱いにされてきたマイナリさんの「無罪」が確定する。再審の公判で検察側が「無罪」を主張するに至ったからだ。検察は漸く冤罪であったことを認めたのである。
市井で暮らす普通の感覚からすれば、どこから考えても、有罪とは断定できないにもかかわらず、冤罪を晴らせぬままにいる人たちが世の中には沢山いる。私たちにとって冤罪は決して他人事ではないのである。
誰もがひょんなことで事件に巻き込まれ、何もやっていないのに、やったことにされ、法に裁かれ、人生を台無しにされてしまうと可能性があると考えるべきだろう。
パソコンのなりすましメール事件がまさにそうだった。大阪市のホームページに大量殺人の予告を書き込んだとされたアニメ演出家は本人が無実を主張し続けていたにもかかわらず、偽計業務妨害罪で起訴されてしまったし、横浜市のホームページに小学校の襲撃予告の書き込みをしたとされた大学生は検察官に容疑を否認していたら長くなると脅され、やってもいない犯罪を認めさせられてしまった。どうやら誤認逮捕されてしまえば、それでお終いなのである。痴漢でも冤罪が発生しやすいことは周防正行が映画『それでもボクはやってない』で告発した通りである。
人質司法」という言い方がある。疑われた罪をやっていないと否認すると、自由を奪われたままの勾留が長期化し、やってもいないのにやったと自白してしまう実態があるということである。要するに法を建前にした「国家権力」が人間の姿を借りて(刑事なり、検察官として)、外界と遮断された「個人」の前に、言ってみれば「角田美代子」として現れるのである。この程度の人権感覚で済まされてしまっている日本は本当に民主主義国家と言えるのだろうか。
行政や立法を担う政治家であれば、私たち主権者は選挙で落選させることができる。しかし、三権の一角たる司法権力に対して、主権者であるはずの日本国民はあまりに無力なのである。国民主権司法権力に及ぶのは裁判員制度で裁判に直接関与するか、衆議院選挙とともに実施される最高裁判所の裁判官に対する国民審査(形骸化してしまっているのは周知の事実である。この制度こそ憲法改正で何とかしてもらいたいものである)などに限られているのだ。司法権力は主権者を恐れずに済むのである。
しかも、司法権力は実態的には行政と司法を跨いで存在する。このことの怖さが冤罪事件によって炙りだされているのだ。個人に警察、検察、裁判所は三位一体となって襲いかかって来るのだ。予断をもって書くが、日本における司法権力は1945年8月15日以前との連続性が最も強い、言葉を変えて言えば最も「戦前」を温存して来た権力であることが問題なのではないだろうか。本来は別組織であるはずの警察、検察、裁判所がいとも簡単に三位一体化してしまうのは、そのような予断を前提にしない限り、理解できないのではないだろうか。もし日本が民主主義国家であろうとするならば、取り調べの全面可視化はもとより、この三位一体が成立しないようにする工夫をしていかなければならないはずである。裁判は本質的に国民裁判であるべきなのだ。