集団的自衛権について考える

自民党安倍晋三は早くも総理大臣になったような気分なのだろうか。10月31日、臨時国会の代表質問に立った安倍はノリノリであった。朝日新聞などが指摘しているように代表質問というよりも、「まるで所信表明」であったことは間違いあるまい。これで首相になれなかったら、相当恥ずかしいはずなのだが、お坊ちゃん育ちなだけに脇が甘いのかもしれない。もしかすると、安倍は政治の世界は一寸先は闇だということを思い知る日が近いうちにやって来るかもしれない。国民からすると、自民党民主党もどっちもどっちなのだということを安倍は理解できていないということである。その間隙をつけると踏んだから、橋下徹は国政進出を急いだのだし、石原慎太郎閣下は東京都知事を放り投げたのである。
安倍は「まるで所信表明」のような代表質問で集団的自衛権を認めるべく憲法解釈の変更を訴えた。ここらが最も安倍らしい主張ということになろうか。11月1日付産経新聞は同紙の社説にあたる「主張」で次のように書いている。

代表質問では、安倍氏集団的自衛権の行使容認に向けて「権利を保有しているが行使できない」という政府の憲法解釈の変更について見解をただした。
首相は「野田内閣で解釈を変えることはない」としたが、「さまざまな議論があってしかるべきだ」と語り、安倍政権で設置された有識者懇談会の報告書で「公海上での米艦船の防護」が提起されたことなどにも言及した。
首相自ら集団的自衛権の議論を活性化すべきである。尖閣諸島の危機にどう対処するかも重要な論点だ。予算委での一問一答形式の本格的な論戦を聞きたい。 「代表質問 集団的自衛権もっと語れ」

国連憲章に従って言うのであれば、国連憲章はパリ不戦条約を引き受ける形で武力行使や武力による威嚇を禁じているが、自衛権は否定していない。わが国における憲法9条解釈は、この国連憲章に則っていると言えるだろう。自衛権は独立国家が有する固有の権利なのである。この自衛権を国家と国家の関係ではなく、国家と国民の関係で考えて言ったならば、国民の抵抗権、国民の武装権という問題(クリント・イーストウッドの『許されざる者』を是とするかどうかの問題)にも逢着するはずだか、今はそこに深入りするのはやめておこう。国連憲章によれば自衛権には個別的自衛権集団的自衛権があり、他国から攻撃を受けた際にこれを行使できるということになっている。ただし、集団的自衛権について、これこれこうだと詳しく定義されているわけではない。『日本大百科全書』によれば「集団的自衛権については憲章はなんらの定義もしていないが、たとえ自国が直接には武力攻撃を受けていなくても、自国と深い関係にある他の国家が武力攻撃を受けた場合には、これに対して防衛する権利であるといってよい」ということである。
わが国の法律で集団的自衛権について書かれているのは日米安全保障条約(日米安保)である。前文には、こうある。

日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に伝統的に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し、また、両国の間の一層緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的安定及び福祉の条件を助長することを希望し、国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、相互協力及び安全保障条約を締結することを決意し、よつて、次のとおり協定する。

日米安保国連憲章を追認することで成立している条約なのである。しかも、集団的自衛権の行使をも否定してはいない。ただ、第五条で次のように条件をつけているのである。

各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。

日本がアメリカに「助太刀」するケースを考えてみよう。仮にアメリカ本土が武力攻撃を受けても、日本は集団的自衛権を行使できないのである。アメリカ本土に自衛隊を派遣して、アメリカを武力攻撃する勢力と戦うわけにはいかないのである。日本がアメリカとの関係で集団的自衛権を行使できるのは「日本国の施政の下にある領域」に限定されているのである。つまり、日本にある基地や大使館などとして存在する「アメリカ」が攻撃を受けたのであれば自衛隊は助太刀できるが、アメリカ本土はむろんのこと、世界中に点在する「アメリカ」に武力攻撃がなされても、日本は集団的自衛権を行使できない、具体的に言えば自衛隊を派遣できないということだ。アメリカはと言ったほうが良いだろう、アメリカは日本にも固有の権利として認められている集団的自衛権日米安保で「縛り」をかけているに違いない。ひとつは日米戦争に至った戦前の教訓を踏まえてのことだろう。敗戦国となった日本が戦勝国であるアメリカを信用するほど、アメリカは日本を信用していないということである。
安倍の言う集団的自衛権行使容認とは、日米安保の第5条を廃棄し、名実ともに双務的なものにするということなのだろうか(海上自衛隊は間違いなく空母を擁することになるはずだ)。日本が集団的自衛権を全面的に回復し、日米を真に対等な関係に持っていこうとしたならば、少なくとも第5条は「各締結国は、アメリカ合衆国及び日本国の施政の下にある領域における」と書き改めねばなるまい。ここを放ったらかしにして、集団的自衛権行使容認を主張するということは、1999年の周辺事態法以後の流れから想像するに自衛隊アメリカ軍への隷属化を更に進めるという意図があってのこととしてしか私には思えないのである。周辺事態法で後方支援という限定的な形でアメリカ軍の一部に組み込まれた自衛隊集団的自衛権行使容認によって全面的にアメリカ軍の一部として組み込まれる。自衛隊は自主、自立、自助を奪われた軍隊なのである。アメリカからすれば、これほど好都合な軍隊は世界にそうあるものではあるまい。
更にいえば、日米安保体制において、アメリカが集団的自衛権を行使するという場合において、最悪のケースを想定しておいてもよかろう。それは集団的自衛権の行使を口実にして、アメリカ軍の銃口が私たちに向けられる可能性もあるということである。集団的自衛権行使の歴史を振り返ってみるならば、そういうことばかりなのである。それはアメリカも得意としているし、今は亡きソビエトも得意としていたことである。ソビエトハンガリー動乱チェコスロバキアの「プラハの春」弾圧、アフガニスタン軍事介入を正当化した理屈が集団的自衛権の行使であった。アメリカも負けてはいない。ベトナム戦争、ドミニカ侵攻、ニカラグア侵攻は、やはり集団的自衛権の行使としてなされた。
アメリカに対する従属を脱するという意味からも、「愛国者」であればあるほど集団的自衛権行使を安易に容認すべきではないと思うのだけれど…。ここら辺りを産経新聞安倍晋三はいったいどのように考えているのだろうか知りたいものである。