毎日新聞の悲惨な社説

記者とはそれほど素晴らしい稼業なのだろうか。私はそうは思わない。記者は記者であることを恥ずかしいと思うべきだ。含羞として?否、現実としてである。昔から「羽織ゴロ」という異名が記者には付きまとっていたように、確かに他者に対して偉そうである。しかし、自分自身に対して胸を張れるような商売ではあるまい。記者とは社会で起こるあらゆる事象に首を突っ込み、御節介を焼く生業であり、大事件ともなれば発情もするし、他人の悲劇に土足で踏み込むことも厭わないことでカネを稼ぐ仕事である。世間の常識からすれば相当「うさん臭い」連中であるはずだ。正義の旗を振りかざすよりも前に「権力の監視役」だとか、「歴史の目撃者」だとか自惚れるよりも前に、まずは自らの恥ずかしさを自覚することから記者の一歩は始まる。記者ではなくジャーナリスト、ルポライターと言おうが本質は同じ売文稼業である。ちなみに私は自らを「下々記者」であると認識してきた。オレはローリングストーンズの「paint it black」をテーマ曲とする「下々記者」にしか過ぎないのだ。何故なら、私の活躍する舞台は業界誌であり、業界の提灯持ちという意味では、新聞記者などよりも遥かにうさん臭いし、恥ずかしくも、後ろめたい存在であるという自覚がそう認識させたのである。私は自らを積極的に差別してきた。逆説的な言い回しになるかもしれないが、私が「下々記者」として誇りうるのは、その一点に尽きる。竹中労は『決定版ルポライター事始』をこう書き出している。

モトシンカカランヌー、……という言葉が沖縄にある。
資本(もとで)のいらない商売、娼婦・やくざ・泥棒のことだ。顔をしかめるむきもあるのだろうが、売文という職業もその同類だと、私は思っている。

そう、その通りだと私も思う。しかし、全国紙の新聞記者ともなると、テレとしても、含羞としても、こうした「情熱」は微塵にも消え去るようだ。同じ「売文という職業」を選択していながらも!
毎日新聞は1月26日付で掲載した社説「テロ犠牲者10人 『名前』が訴えかける力」はアルジェリア人質事件における犠牲者の実名報道を正当化するものであったが、そこに次のような文章が掲げられた。

犠牲者の××××さんの母、△△△さんは、宮城県南三陸町仮設住宅で、近く帰国して再会するはずだった息子への思いを記者らに語った。東日本大震災で自宅を津波に流され、思い出の品もないという。○○○○さんの兄、□□さんも記者に対し優しい○○さんの人柄を語り涙を流して悲しんだ。こうした報道に接し、民間人を巻き込んだテロ行為への怒りが改めてわき上がる。

伏字の部分にはこれみよがしに実名が記されていたが、この社説を書くにあたって、犠牲者やその家族の実名を掲げる神経が私にはわからない。ここに「自由な言論」の躍動はない。新聞の今回の実名報道に批判的な見解を述べた人々に対する単なる挑発の意味しか有さない実名の記載である。しかも、毎日新聞は同紙の前身たる東京日日新聞の汚点をすっかりと忘れてしまっている。「こうした報道」は例えば昭和6年(1931)においては、万宝山事件であり、中村大尉虐殺事件といった「暴戻なる支那」のテロ行為であり、「こうした報道」が日本人の中国への憎悪に駆り立てていって、満州事変という戦争を「暴支膺懲」の、暴戻なる支那を懲らしめるための、自衛の範囲内でなされた軍事行動であると正当化していったのではなかったか。
この社説は「新聞倫理綱領は『自由と責任』『品格と節度』をうたう。その原点を記者一人一人が自省すべきだ」とも書いているが、そんなお題目を百万回唱えたところで何の意味もないほど、新聞は歴史に無自覚のようである。挙句の果てに「匿名化が進む社会はどこか息苦しい」と書いているが、そんなことを匿名で書かないでもらいたいものである。署名記事を原則とする毎日新聞だが、社説が「息苦しい」のは匿名だからなんだよ!
批評家の加藤典洋が出発点の動かしがたさという言い方をしているが、毎日新聞のこの社説を書いた匿名子に欠けているのは記者としての出発点の動かしがたさなのではないだろうか。