「社長」が急逝したので昔話をしてみよう

これだけ生きていると様々な死に直面する。結婚式に出席するよりも葬儀に参列する機会のほうが圧倒的に多い。誤解を恐れずに言えば大概の死に慣れてくるのである。それでも、俄かに現実と受け止められないこともあるのだということもある。朝倉喬司の訃報がそうだった。そして、今回も。その訃報に接したのは1月26日のことであった。その前日、社長とはたわいのない言葉を交わして別れたばかりである。

社長が倒れて心臓が停止しました。
とりあえず近くの病院にいます。お葬式やら諸々ご協力下さい。

突然のメールであった。私はわが目を疑った。ウソだろと思った。2月に慶應病院での手術の予定が決まったばかりであった。急逝する前日に交わしたたわいのない会話とは、「今度は私がお見舞いに行く番ですね」と私が言ったのに対し、社長が「お互い悪運だけは強いからな」と応じた短いやりとりである。12月に私は肝臓にかかわる数値が一気に上がり、入院した。しかし、その原因がわからないまま数値が劇的に下がり、一週間で退院していた。社長もまた大腸ガンを患い、これを手術した後も、肝臓、肺に転移していったが、手術と抗がん剤で劇的に回復を遂げていたが、今度は静脈瘤の手術を2月に控えていたのである。
私は社長が経営する業界誌の記者として今日に至るまで仕事を続けている。もっとも、厳密に言えば私はこの業界誌を発行する会社の入社試験を受けていない。私が朝日新聞の求人欄を見て応募したのは、「東京タイムズ」という徳間書店を擁する徳間康快が社長をつとめる小さな新聞社であった。今でもはっきりと記憶しているのだが、その求人広告には「PR記者募集」という文言と「東京タイムズ」という社名が記載されていた。私は履歴書を携え、新橋に本社を構えていた「東京タイムズ」に足を運んだ。簡単な筆記試験を済ませると、私の眼前に現れたのは、髪の毛を短く刈り込み、ダブルのスーツでがっしりとした身体を覆い、眼光も鋭く、新聞社の幹部というよりは、当時の私の常識からすれば総会屋とかヤクザというイメージのほうがぴったりする、ある意味、異形の人であった。「東京タイムズ」の営業本部長の名刺を差し出された。
「新聞も良いけれど、ボクは自分の会社も赤坂で経営していて、二次面接はそこでしますから」
つまり、赤坂で業界誌を経営していた社長は、仕事を通じて徳間康快と懇意にしており、その営業手腕を見込まれて「東京タイムズ」という経営難の新聞社の幹部に就任していたのだ。自分の会社の名前で社員を募集するよりも、「東京タイムズ」の名前を利用して募集したほうが人材が集まるだろうと考えていたのだ。こうした募集は法律違反なのだろうが、そうしたことは一切気にしないのが社長の持ち味であった。
社長の名前は赤石憲彦という。Wikipediaでその名前を検索しても出てこないが、『噂の真相』で知られる岡留安則の名前を検索すると、次のような箇所に出会うことになる。

赤石憲彦率いる東京アドエージに入社し、以後2年半、業界紙の編集に携わる。

その業界誌(新聞形式ではなく雑誌形式であるから「誌」が正しい)に私は記者として入社してしまったのである。大学を卒業し、最初につとめたプロダクション21というコマーシャルの制作会社は半年で辞めていたから、ほとんど新卒の状態で業界誌の仕事を始めたのである。当時の私の心境を告白するのであれば、人生を投げていたというか、最悪な選択を積極的にしていこうという、幾分、マゾヒスティックな心境にあった。社長に対しては基本的に「はい」としか言わないことを決めていた。業界誌の社員でありながら、「東京タイムズ」に朝の7時に出社し、営業本部の社員たちのデスクに雑巾がけをすることから始まり、夜の9時の社長から電話を待って帰宅するという生活であった。書くのは業界誌の記事ばかりではなかった。「東京タイムズ」の紙面では何面であったかは忘れたが、営業本部が広告絡みで担当する紙面が一面あり、この記事も私が書いていた。むろん、労働基準法とも最賃法とも縁のない労働であった。人生を投げていたから、そんな下積み生活にも耐えられたのであろう。社長が「東京タイムズ」を去るまで3年ほどの期間か。いつの間にか「個」として鍛えられていった。何しろ名刺交換をお願いして、私が名刺を出しても先方は名刺を出さなかったり、渡したばかりの名刺を私の眼前でゴミ箱に捨てられたり、総会屋と呼ばれるような先生たちとともに総務部の窓口に並んで集金したり、尋ねていった企業の受付で「〜さんはご在籍でしょうか」と言っただけで110番されたりと、筆舌に尽くし難い経験を山のように積んだ。会社では社長に朝から晩まで怒鳴られていた。灰皿を投げつけられたり、スチール製の椅子を放り投げられたり、毎日、サンドバッグのようにかわいがられた。この3年間、給料は減給されても、昇給はなかった。今でも時々思うことがある。何故、あのとき辞めなかったのかと。今の自分であれば三日ともたないことだろう。それなのに何故?幼い私は当時、これは「私戦」だと思っていた。この「私戦」から逃げ出しては、捨てるべき人生すらなくなってしまうのではないか。そんな考え方をしていた。「私戦」に勝とうとは思わなかった。「はい」「はい」と言いながら「私戦」の土俵から降りないことに価値を見出していた。価値と言っても、それは自分にしか通用しない価値であることもわかっていた。ただ、今回は撤退したくなかったのである。この「私」を曲げずに業界誌の「下々記者」になることが私にとって唯一の命題であった。
記事の書き方も、取材の仕方も、何も教わらなかった。教えてもらったのは酒の飲み方だけである。飲んだら酔うなと。私にとって救いだったのは「東京タイムズ」の現場を覗けることであった。当時、編集委員長をつとめていた人物はべ平連出身で岩国あたりで反戦喫茶のマスターもつとめていたという経験を持っていたこともあり、多くのことを学ばせてもらった。ロクちゃんこと中川六平である。このロクちゃんを通じて朝倉喬司とも知り合う。不思議なもので社長が「東京タイムズ」を去る頃には業界誌記者として一人前にはなっていたように思う。社長も私に対して怒りつかれたようであった。何よりも、最初は捨ててかかった人生であったが、負けない「私戦」を通じて私は「右手左手」という生き方を身につけていた。「右手」はライスワークだ。食うために「右手」は使う。競合関係にある業界紙誌の記者に負けないほどに全身全霊をかけて「右手」を使ってきたつもりだ。一方の「左手」はライフワークである。自分にしかできない表現を諦めることなく続けることである。ただし、「左手」を駆使できるのは、人が遊んでいる時間であり、休んでいる時間だ。極端に言えば睡眠を削り取ってでも創り出す時間である。何冊かは上梓するまでには「左手」による表現にも全身全霊を賭けてきた。実は私に「右手左手」という表現を教えてくれたのは大手出版社の編集者でありながら、小説を書き続けた山本音也である。氏から教わる以前にそういう時間配分になってはいたものの、「右手左手」という言い方を教えてもらったときの感動を私は今でも忘れることができない。
そうした日々が蓄積されていった。そうした日々はこれからも続くと思っていた。しかし、今、私の「右手」の雇い主は忽然とこの世から消えてしまったのである。遺言らしきものは何一言として残さず、私の視野から去ってしまった。しかし、これからも私にとって社長はただ一人である。それが社長に報いることでもあると思っている。色々なことがあり過ぎた。未来は誰にとっても未知だが、私の過去は私にとって絶対である。社長、安らかにお眠り下さい。私の夢に出てきて「こっちでまた一緒にやろう」などと誘惑しないで下さい。合掌…