人生の問題に正解はない!ただ選択するだけである!!

どうも感傷的になっていけない。理由はわかっている。昨日のエントリに書いたように私の「飼い主」が急逝したためである。様々な記憶が蘇ってくる。どちらかといえば過去を振り返るタイプではないのだが、普段は無視していても忘れられない過去というものがあるのだと改めて痛感している。今日がお通夜で明日が告別式である。明日が終われば、こうした状態から解放されるだろう。いつまでも感傷に浸っているほど、私の人生は暇ではない。ともかく今日と明日を耐えるしかあるまい。
恐らく、誰でもそうだろうが、人の人生において解決できる問題は何一つあるまい。正解がないと言うべきかもしれない。人生上の問題において人は選択するのみである。どちらかを決断するのである。その段階で結果は予想できても、予想通りの結果に終わるとは限らない。いずれにせよ、人はその結果で正解であると錯覚するのである。そういう意味でよく言われるように結果がすべてなのである。繰り返す。もともと正解はないのである。人は選択することしかできないのである。「戦いか、死か。血まみれの戦いか、無か。問題は厳として、こう提起されている」とはマルクスの言だが、「戦い」を選択したとしても結果は「死」であることもあり得るし、「血まみれの戦い」を選択したとしても結果は「無」であることもあり得る。否、そういうケースのほうが多いかもしれない。それでも「戦い」や「血まみれの戦い」を選択することがあるのが人間を人間たらしめている根拠なのやもしれぬ。まあ歴史をみればわかることである。
私はこれまでどういう選択を積み重ねてきたろうか。どちらかといえば私は選択するに際して「好み」を優先してきたように思う。好きか、嫌いかの選択である。人によっては私と同じように「好み」をもって選択していながら、正義やら何やらを偉そうに振りかざす向きもあるが、私の場合は正義を振りかざすような可能性を孕んだ選択肢は拒否してきたつもりだ。はっきり言うが偉そうな人は嫌いである。
岐路とは「きろ」とも「えだみち」とも読める。「人生の岐路(きろ)に立つ」と言えば未来を決する重大な局面というほどの意味になるが、「余が頗る学問の岐路(えだみち)に走るを知りて」〈森鴎外舞姫』〉となれば、本筋ではなく脇にそれた道という意味になるそうだ。岐路(えだみち)を走るのも私の「好み」からすれば悪いことではないが、私はできる限り岐路(きろ)を走りたい。選択に迫られて、だらだらとはしたくないのだ。迷いに迷って選択を引き延ばしたところで、時間の無駄使いになるだけだ。別の選択にのぞむ機会を逸してしまうのがオチである。選択に悔恨はつきものなのだ。亀井勝一郎いわく

人は何事かをなせば必ず悔恨はつきまとう。そうかといって何事もなさざれば、これまた悔恨となる。

さあ選択のときである。