断片の昭和史(9) 築地・八宝亭一家惨殺事件

中華料理の八宝亭は築地警察署の裏門を出て20㍍ほどの場所で営業していた。1951年(昭和26)2月22日9時半頃、築地警察署に血相を変えて飛び込んできたのは、その八宝亭に見習いコックとして住み込んでいた山口常雄(当時25歳)であった。山口が朝起きてみると八宝亭主人の岩本一郎(当時43歳)、その妻きみ(当時40歳)、長男元(当時11歳)、長女紀子(当時10歳)が薪割りで惨殺されているというのだ。署員が現場へ急行する。一階の六畳間は血の海と化していた。山口が言うように寝具の上には主人、妻、長男の遺体が転がっていた。長女の遺体は襖に片手を突っ込んだ半立ちの状態であった。どの遺体も頭を滅茶苦茶にに叩かれていた。犯人が被害者4人に対して52回にわたって薪割りを振り下ろしつづけたことが捜査によって判明する。また現金2〜3万円のほか、合計24万円あまりの残金のある預金通帳が三冊盗まれていた。
当初、警察は山口を疑った。しかし、山口は「太田成子」なる女性の名前を口にして、大声で泣いたらしい。自分は捜査に協力しているのに自分を疑うなんて、もう死んでしまった方がマシだと。警察はその涙を信じた。あれは演技ではないと。山口を信じたのは警察ばかりではない。新聞も山口を追いかけ回し、接触しているうちに山口のような良い奴が犯人ではないと確信するようになる。新聞は親しみを込めて山口常雄を「山口君」と呼んだ。新聞の「発情」が始まる。朝日新聞は次のように書いた。

山口君らの話によると、凶行前日の21日夕刻太田成子という25、6歳、パーマ、小太りの洋装の女が『女中募集のはり紙を見てきた』と言って、同家階下の三畳に泊まり込んだが、事件が発覚したときはすでに姿をくらましていた。

加えて、その夜、太田成子のもとに親類と称する若い男も訪ねてきたという。このことから「“お目見得強盗殺人”ともいうべきめずらしい犯行と思われる説が有力になった」のである。今や死語になっているが、“お目見得”とは奉公人が数日間にわたって試用される期間をいう。新聞というマスメディアは「謎の女」太田茂子の顔を唯一知る生き証人である「山口君」に群がった。捜査当局は「山口君」の協力のもとモンタージュを作成した。警察庁の売春取締班に出向き、売春婦リストに目を通す。「山口君」は捜査にも、報道にも協力的であった。新聞記者に誘い出されれば、たとえ深夜であっても、嫌な顔を見せずに、新聞社のクルマに同乗して警察に面通しに出かけた。捜査協力を介して新聞記者との関係は深まるばかりであった。渡辺はま子の「桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン」が「山口君」の愛唱歌だった。

桑港のチャイナタウン/夜霧に濡れて/夢紅く誰を待つ 柳の小窓/泣いている泣いている おぼろな瞳/花やさし 霧の街/チャイナタウンの恋の夜

この曲を口ずさみながら新聞社に現れた「山口君」は3月6日付の朝日新聞に「私の推理」という手記を堂々と発表する。

八宝亭の4人殺しの1人の生き残り者として私は、現場の様子を世間の人にお知らせして犯人が1日も早く検挙されることを祈っている。まず、犯行は計画的だったと思う。何故なら凶行数時間前に私が廊下に降りると女は『私の親類のものです。泊って行きますが』と言った。その時、男は私に顔を見られないように伏せていた。女が女中にして下さいと八宝亭を訪ねて来たときには家の前の「女中入用」のはり紙はなく、それは1週間も前にはがれていた。女は客が来た時にも顔を見られないように本を読むふりをして顔をかくしたり、人としゃべることも極力さけていた。今考えるとナマリを知られまいと思ったのではなかろうか。…つまり、私は浅草をはじめ上野あたりに根城があり、しかも仲間の多い不良の仕業で、この男か、あるいは男の友達が1、2度八宝亭に来たことがあり家の様子を知っているのではないかと思う。世間では、私が凶行の日の朝の9時ごろ起きたのはおかしいという人もあるが、私はいつも9時ごろやって来るゴミ屋の鈴を聞いてから起きる習慣になっているので故意に遅く起きたのではない。

その陽気で誠実なキャラクターが新聞記者に愛された。ある意味で新聞というマスメディアは「山口君」と“共犯関係”を切り結ぶに至る。「山口君」の下宿には取材に協力したお礼でもらったタバコが20箱もたまっていたという。『週刊朝日』の記事によれば「山口君」は「朝日にだけ…」「毎日にだけ…」「讀賣にだけ…」と、さも特ダネであるかのように新聞に擦り寄って、結局は同じ情報を各社に売り歩いたという。『週刊朝日』は「バカバカしいと思っても一応は引きずられるのが記者根性である」と言い訳をした。しかし、果たして新聞は「山口君」に引きずられたのか。新聞が「山口君」を引きずったのである。新聞というマスメディアは本質的には「山口君」を引きずっていたのである。マスメディアの「欲望」とは、そのようなものである。戦争中の新聞がそうであったように。新聞がマスメディアであるかぎり、いかんともし難い「生理」がそうさせるのである。
大衆の視線が犯人捜査にメディアと一体になって協力する「美談の人」たる「山口君」の動向に集中し、マスメディアはますます熱狂する。しかし、大衆は「山口君」を「美談の人」と理解する半面で、やはり疑わしさも「山口君」に感じていたのではなかったか。
事件が解決に向かって動き出す。3月10日、「太田成子」こと元売春婦の西野つや子(当時24歳)が逮捕される。「山口君」の協力を得て作成されたモンタージュ写真のお手柄であった。ところが、逮捕された西野は八宝亭一家惨殺の犯人は「山口君」にほかならないと自供をはじめる。

事件の犯人は山口であり、自分は犯行後の山口から頼まれ、盗んだ通帳で金をおろしに行ったが、通帳の届出印とは違う三文判を持っていたので払い戻しに失敗し、怖くなって故郷に逃げ帰っていた。

3月10日午後5時過ぎ、警察は新聞社のクルマで知人宅に現れた山口常雄を逮捕。「山口君」は殊勝だった。

今は大変疲れているので明日になったら、すべてを話します。

しかし、その約束は果たされなかった。翌11日未明、「山口君」は築地署の留置場内で隠し持っていた青酸化合物を飲み自殺を遂げてしまう。マスメディアによって演じさせられてきた自分に本当の自分が耐えられなかったのではないだろうか。マスメディアによって山口常雄は殺されたのかもしれない。『週刊朝日』3月25日号に掲載された「山口君」の次のような発言は示唆的である。

「新聞社の人はよくしてくれるし、好きな酒もタダで飲める、こんな楽しいことはない。もう心でも思い残すことはない位さ」

「山口君」に犯罪者に特有の“重さ”や“暗さ”は一片として見て取ることはできなかった。人々はどこまでも無意味に明るく陽気な「山口君」に意味に満ち溢れた戦中と違って、戦後という空間には“無意味”が満ち溢れていることを深く実感したのではなかったろうか。築地・八宝亭一家惨殺事件は後期アプレゲール派を代表する犯罪のひとつに数えられている。
マッカーサー元帥が国連軍最高司令官を解任され、アメリカに帰国することになるのは、この事件の一ヵ月後のことであった。原爆を告発しつづけてきた原民喜朝鮮戦争の勃発に衝撃を受け、中央線に飛び込み自殺したのは3月13日のこと。