1月10日付朝日新聞が掲載した「主筆」若宮啓文の座標軸の「歪み」について

2011年度の自殺者は未だ発表されていないが、2010年度の自殺者は警察庁によれば3万1560人であり、13年連続で3万人を超えている。2009年にWHOが発表した国別の自殺率順によると日本は世界第5位の自殺大国ということになる。10位までを記すと、リトアニア、韓国、カザフスタンベラルーシ、日本、ロシア、ガイアナウクライナスリランカハンガリーという順番になる。ちなみに2011年度の交通事故死亡者は4611人で7年連続の減少だ。自殺者が13年連続で3万人を超えているということは、13年間で約40万人が自殺しているという計算になる。40万人と言えば、宮崎市柏市の人口とほぼ同じ水準である。中核市が13年間でひとつ消えたという計算になる。これだけ大量の自殺者を生んでいるということは、日本が「内戦」を抱えていると言って良いのかも知れない。実際、昨年12月にアメリカが撤退することで一応の終結を見たイラク戦争での犠牲者よりも、日本の自殺者の方が多いのだ。イラク戦争ではアメリカ兵の約4500人が死亡、イラク側の犠牲者は開戦の03年3月から10年10月までの死者は15万人と言われている。イラク戦争によるイラク人の犠牲者は5人のうち4人が民間人であると言われているが、日本の13年間で約40万人の自殺者は言ってみれば全員が民間人である。本来、「日本の自殺」は政治としても放置しておけない問題であるはずだ。
1月10日付朝日新聞には「主筆」の肩書を持つ若宮啓文が一面の右肩六段と十一面の六段ぶち抜きで「座標軸」を書いている。一面に掲げられたタイトルは「明日の社会に責任をもとう」とあり、サブタイトルには「『日本の自殺』を憂う」とあったので、私などは年間3万人にも及ぶ自殺者問題を取り上げているかと思ったが、若宮が取り上げているのは「日本という国家の自殺」についてである。若宮は「喩」として「自殺」という言葉を使っていたのである。もともとの出所は若宮の記すところによれば「保守系の学者たちが『グループ一九八四年』の名で共同執筆」した「1975年の文藝春秋2月号に載った『日本の自殺』」である。

保守のイデオロギー色の濃いその内容には偏見や見通しの誤りも少なくなかったが、やがてバブル経済に踊る日本を予見していたと言えるかもしれない。バブル経済からほぼ20年。後始末に追われながら国の借金が瀬戸際までふくれたいま、『日本の自殺』がかつてなく現実味を帯びて感じられる。

要するに今回の若宮の座標軸は一口に言ってしまえば民主党の野田政権が進める消費税増税路線を「つぶしてはならない」と、これを全面的に肯定する保守派にありがちな主張なのだが、保守派の増税論と一線を画すことを主張したいのだろう。雑誌『文藝春秋』の30年以上も前の特集を持ち出し、「保守のイデオロギー色の濃いその内容には偏見や見通しの誤りも少なくなかった」とわざわざ断りを入れるのは、ご自身の立ち位置が「リベラル派」に他ならないことをアピールしたかったとしか私には想像がつかないのである。若宮に言わせれば、

財政が瀬戸際だ。貧富の差も、世代間の格差も広がる。深刻な原発事故も起きてしまった。『こんなはずではなかった』と考えるとき、大きな曲がり角だった1970年代を思い起こす。くしくも70年に記者となった私の自戒も込め、その教訓と明日への視点を考えたい。

ということになるようだ。若宮は70年代に「中福祉・中負担」の国家戦略を描き、増税に踏み込めなかったことを悔やんでいる。しかし、それこそ大平正芳が首相として一般消費税を提唱し、当時の政権党たる自民党が40日間抗争なる内紛の末、内閣不信任案が可決、衆参同日選挙のなか急死してしまうのだが、こうした一連の動きに際して朝日新聞のみならずマスメディアはどのような役割を果たして来たのだろうか。若宮が70年に記者となったというならば、何よりもまず総括すべきはその辺りではないのだろうか。若宮の主張は、自らと自らが属する朝日新聞の「政治」(まあ報道と言い換えても良いだろう)を予め安全圏に置いての物言いなのだ。ジャーナリストの高田正幸がTwitterで次のように揶揄するのも大いに頷けよう。

けさの朝日新聞1面と11面に若宮主筆の「座標軸」。大論文だが、結局、日本の財政破綻が心配、社会保障制度の維持のためにも消費税率上げを認めよ、ということか。「日本の自殺を憂う」の副題があるから中高年の自殺を論じるのかと思ったら、高層の朝日本社ビルから見下ろす「日本」がテーマだった

自らを安全圏においての物言いは新聞の最も得意とする手法である。若宮は今回の大論文の冒頭で福島第一原発の「人災」について「事故の検証が進むにつれて、かつてこの国の指導者が太平洋戦争に突入した無責任さを思い出」しているが、大日本帝国と自称していた頃の日本国(「この国」と書くのも若宮の「好み」なのだろう)の指導者が大東亜戦争に突入していった際に果たした(朝日)新聞の役割と責任には頬被りを決め込んでいるし、時を70年ほど隔てても尚、福島第一原発の事故報道に際して大本営発表を繰り返していた(朝日)新聞の実態(詳細については拙書『報道と隠蔽』を参照して下さい)さえもなかったかのにようにするかの言論を駆使しているとしか私には思えない。
若宮の目に入るのは「日本という国家の自殺」だけであり、「日本人の自殺」なんぞ目に入らないのだろう。若宮啓文の「論」にとって優先されるのは個々人の「生活」ではなく、「この国」に他なるまい。リベラリストとしても、また愛国者としても若宮は歪んでいるのだ。いや、その歪みは若宮個人のものではなく、新聞というマスメディアの歪みなのではないだろうか。若宮や朝日新聞にとって「朝日新聞の自殺」も視界にはないのだろう。
ま、野田首相からすれば一緒にメシを喰っただけの効果はあったということになるのか。

6時、記者会見。48分、東京・大手町の大手町ファーストスクエアエストタワーの料理店「トップ オブ ザ スクエア宴」で報道各社でつくる「七社会」の渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長、若宮啓文朝日新聞主筆らと会食。

朝日新聞に掲載された12月16日の首相動静である。

国家よりワタクシ大事さくらん

これは摂津幸彦の一句。