東京新聞の3月19日付朝刊の一面は共同通信が実施した福島第一原発周辺8市町村にとどまる小学5年と中学2年を対象に実施したアンケート調査を紹介している。「放射線『気にする』33%」と見出しには打たれている。しかし、この見出しは本来であれば「放射線『気にしていない』61%」と打たれるべきではなかったのではないだろうか。そういう調査結果なのだ。東京新聞は、放射線を気にしていないが61%に上るのは「大人の世代によってつくられた『安全神話』の中で、原発が身近な子どもの複雑な心中が浮き彫りになった」と書いているが、そのような解釈は「原発が身近な子ども」の心中を随分と軽く見積もった理解だとは少しも考えないのだろうか。私がアンケートに答えた子どものひとりであったならば、東京新聞の紙面を読んで、だから大人は駄目なんだ!と思ったにちがいない。放射線を気にしていないが61%に上ったのは福島第一原発周辺8市町村にとどまる小学5年と中学2年の心中が極めて健全であることを示唆する数字であると私ならば考える。子どもたちはゲンパツから遠く離れて暮らす被曝ファシスト連中よりも遥かに健全で落ち着き払った思考の持ち主なのだ。
東京新聞が「脱原発」を掲げていることは承知しているが、そうした大人の都合でアンケート調査の結果を曲解することは許されないことだと私は思う。必要以上に原子力発電の安全性ばかりをアピールしてきた東京電力をはじめとした電力会社とこれは同じヤリクチであることに気がついていないという意味において、こうした輩に「脱原発」の世論形成を託せはしないと私は考える。
しかも、二面に掲載されたアンケートの調査結果を見ると、「原子力発電所は必要だと思いますか」という質問に対するパーセンテージを東京新聞が一切無視して報じていないことがわかる。かろうじて福島大の山川充夫教授のコメントのなかで「それでも原発を必要と答えている子どもが多いのは、原発を契機とした仕事に親や親戚が就いていた可能性が高いからだと考えられる」と触れているのもである。どんなに高かったのかと言えば、「世の中に必要だと思う」が「103」で「世の中に必要でないと思う」の「40」を大きく上回っているのだ。ちなみに「福島県には必要ないが、福島県の外では必要だと思う」が「23」、「よく分からない」が「56」。これをパーセンテージに直すと「世の中に必要だと思う」が46%、「世の中に必要でないと思う」が18%。原発を必要だと考える子どもたちが「福島県には必要ないが、福島県の外では必要だと思う」の10%も含めれば過半を超えるのだ。
東京新聞は何故にこうした結果から、そのように考える子どもたちから逃げるのだろうか。東京新聞が掲げる「脱原発」の安っぽさを見せつけられた思いがする。福島大の山川充夫教授の解説も私がアンケートに回答した子どもの一人であったならば、子どもをバカにするんじゃないと吊るし上げてやりたくなるだろう。相も変わらず大人は判ってくれない、のだ。山川よ!聞くが良い。原発を必要と答えている子どもが多いのは、子どもが大人のように政治やイデオロギーに毒されず、原発を純粋に科学として理解しているからではないのか。ただし、子どもたちに原子力とは核兵器の核にほかならず、原罪が張り付いていることには、まだ気がついていないのかもしれない。こうした解釈が何故にできないのだろうか。自らのイデオロギーに引きつけて理解するから曲解してしまうのだ。
東京新聞は昨日3月18日付の吉本隆明の死について触れた「筆洗」で
原発の存廃やエネルギー問題の将来も、まさに国民投票によって決めるべきテーマであろう。「大衆の原像」を自らに繰り込んできた思想家が、震災後に湧き上がった反原発の潮流を批判していた真意を直接、問うてみたかった。
と書いたが、もし吉本が生きていて東京新聞の今日の紙面に目を通したならば、だから「反原発」も「脱原発」も駄目なんだと喝破したことであろう。この国の進歩派に欠如しているのは、いつだって想像力なのである。
註・このアンケートについて沖縄タイムスが3月22日付「大弦小弦」(与那嶺一枝)で触れ、次のように書いていることが印象に残った。
もしかしたら―。いまだ職が決まらない中、東電からの補償や失業保険の給付延長で、働く意欲をなえさせていく大人の姿が、澄んだ瞳に映った証しではないのか。国策の下、迷惑施設の米軍基地を抱える沖縄の地で、そんな懸念が頭の中を駆け巡る。
せめてこの程度の想像力は持つべきだろう。