オリンピックとナショナリズムについて

酒場でテレビを前にして柔道を見ていた。私は選手の名前を知らなかった。行け!行け!ニッポン!ガンバレ!!しかし、その選手は腕ひしぎ逆十地固めを決められ、柔道では何と言うのか知らないが、タップした。残念ながら、この選手はメダルを獲得できなかった。どうしたんだ!柔道!酔いも手伝ってか、私は俄か柔道ファンとして興奮していた。いつも、こうなのだ。もし本当に柔道の行く末を憂うのであれば、オリンピックならずとも、もっと日頃から関心を抱いているべきだろう。だいたい、その選手の名前も、これまでのキャリアも知らないくせに、ああだこうだと言うのは失礼極まりない話である。そのくらいのことは百も承知しつつ、オリンピックを楽しんでいるのだ。競泳で日本選手のメダルラッシュともなれば、やはり嬉しく思うし、表彰式で日の丸が掲揚されると感極まってしまう。まだ今回は聞いていないが、そこで「君が代」でも流れたならば、涙腺を緩めてしまうことだろう。
日本の大半の人々はオリンピックの開催期間中、私と同じようにしてオリンピックを楽しんでいるに違いない。確かに『戦争論』のクラウゼヴィッツをもじって言うならば、オリンピックにおける「スポーツとは、他の手段もって継続する政治の延長」である。1972年のミュンヘン大会ではアラブ・ゲリラによるイスラエル選手人質射殺事件があり、1976年のモントリオール大会では南フリカのアパルトヘイト政策に反対するアフリカ諸国の出場ボイコットがあり、1980年のモスクワ大会ではソビエトアフガニスタン侵攻に抗議しアメリカを盟主とする西側諸国による出場ボイコットがあり、その報復として1984年のロサンゼルス大会で、今度はソ連を盟主とする東側諸国の出場をボイコットがあった。もっと遡るならば1936年のベルリン大会はヒトラーナチスイデオロギーを全面的に打ち出した「民族の祭典」にほかならなかった。オリンピックはそう簡単に政治から自由になれないのである。オリンピックを単純に「平和の祭典」であると思ったことは、これまで一度もない。
また、オリンピックで競われる多くの競技が戦争を源流にして生まれていることもあり、スポーツ自体が「他の手段をもって継続する戦争の延長」とさえ言うこともできるだろう。戦争こそナショナリズムの昇華にほかなるまいが、オリンピックやワールドカップナショナリズムを刺激する、大宅壮一の言い方を借りるのならば「アヘン」であろう。しかし、そんな理屈は日本選手が勝っても負けても躍動するテレビ画像が目に入ってくると雲散霧消してしまう。私に言わせればオリンピックは「アヘン」なればこそ人を興奮させ、感動させ、悔しがらせるのである。時としてナショナリズムを刺激していたはずのものが、ナショナリズムの壁を乗り超えてしまうことがある。例えば陸上の100メートル走がそうだ。今から私はボルトの登場に胸を高鳴らせている。あるいは深夜に放映されていた水球につい見入ってしまったりもする。オリンピックはナショナリズムを刺激する一方で、やはり「アヘン」であるがゆえにナショナリズムを解毒してしまう効果も潜在的にはあるのだ。
女子柔道で超攻撃的な選手が金メダルを獲得した際に居酒屋でビールを片手に観戦していた私が「ニッポン、ヤッター!」と手を叩いたところ、案の定、近くにいた客のひとりが「ニッポンじゃねぇよ!選手の名前を言えよ」と絡みモードで呟いていたけれど、私が日本の進歩派やリベラル系、左翼の知識人を全く信頼していないのは、オリンピックで日本頑張れと応援し、日の丸や君が代に感動する民衆の素直な心情を小馬鹿にしている節がうかがえるからである。はっきり断言しても良いが、こうした心情を小馬鹿にしている限り、この手合いが吹聴してやまない思想、イデオロギーの類が日本人民に支持され、多数派を形成することは絶対にあるまい。その所詮借り物の思想は日本の現在に突き刺さることなく、ただ死語を積み重ねることに終始するだけだろう。民衆の暮らしから遊離し、その末路は歴史にも見捨てられるということだ。
大阪市の公立中学の卒業式で教師が君が代をちゃんと歌っているかどうかをチェックしていたということが話題になったことがある。私は教師が君が代を歌わずとも別に良いと考えている。歌いたくないのに歌われたならば、何よりも、「君が代」という曲がかわいそうではないか。しかし、だからといって個人がその思想・信条によって国歌や国旗を拒否することが間違っているとも私は思わない。こうも言えるだろう。オリンピックの「日の丸」や「君が代」に感動してしまう私であるが、何かのきっかけによって「日の丸」や「君が代」を拒否するということもまたあり得ると思っている。「日の丸」や「君が代」に感動するから愛国者で、「日の丸」や「君が代」を拒否するから売国奴だとは決め付けられまい。「日の丸」や「君が代」を拒否する愛国もあれば、その逆もあり得よう。
私にはオリンピックで今でも忘れられないシーンがある。1968年のメキシコ大会である。男子200mにおいて19秒83の世界新記録で金メダルを獲得したトミー・スミスは、表彰式に際して、チームメイトで銅メダリストのジョン・カーロスとともに黒手袋をつけ、靴を脱ぎ黒いストッキングを見せる格好で表彰台に上がり、国歌が流れ、星条旗が掲揚されている間中、頭を垂れ、拳を高く掲げるブラックパワー・サリュートと呼ばれていたパフォーマンスをもって(国歌と国旗を拒否したのである)、アメリカ国内の人種差別に抗議するためであった。後で知ったことだが、銀メダリストの白人選手も二人の抗議を支持し、「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」のバッジをつけて表彰式に臨んだという。いわば個人が国家の方針に反してオリンピックに「政治」を持ち込み、そういう意味ではオリンピックの精神を踏みにじったわけだが、その「行動」は観客のブーイングにあったものの、「事件」として世界に報道され、ナショナリズムを超えて支持されたのである。当時、小学生であった私はパフォーマンスの意味を正確に把握していたとは到底言えなかったが、拳を高く掲げるトミー・スミスを格好良いと思ったものである。二人はこの一件で即刻、アメリカ選手団から除名され、オリンピック村からも追放された。しかし、他の競技でもトミー・スミスに続けとばかり、アメリカがメダルを独占した男子400m走の三人も表彰台で拳を高く掲げたし、男子走幅跳でもメダリストは黒いソックスや裸足で登場した。トミー・スミスの表彰台での抗議はアメリカの公民権運動において画期的な出来事の一つであった。トミー・スミスは「ウィキペディア」によれば、この「事件」について次のように語っている。

もし私が勝利しただけなら、私はアメリカ黒人ではなく、ひとりのアメリカ人であるのです。しかし、もし仮に私が何か悪いことをすれば、たちまち皆は私をニグロであると言い放つでしょう。私たちは黒人であり、黒人であることに誇りを持っている。アメリカ黒人は私たちが今夜したことが何だったのかを理解することになるでしょう

言ってみればトミー・スミスをはじめとした黒人選手の「勇気」がオバマ大統領を誕生させる礎となったのである。そういう意味でトミー・スミスは立派な愛国者であったといえよう。トミー・スミスは全米陸上競技の殿堂入りのメンバーでもある。また、スミスとカーロスの出身校であるカリフォルニア州立大学サンノゼ校には20フィートに及ぶ銅像が建っているという。