電力会社を支える国家社会主義の倫理

7月31日、政府は東京電力に1兆円の公的資金を注入し、筆頭株主となることで、実質的に国有化することになった。裏返しに言えば東京電力をはじめとした電力会社は株式会社である。電気という近代社会にとって欠かせないライフラインを担っているにもかかわらず、国策たる原子力を担っているにもかかわらず、電力会社は一貫として利益を上げることを最大の目的とする民営企業なのである。しかも、原発を擁するということは、我が国の安全保障における潜在的核抑止力の役割を原発が果たしており、そういう意味では国家の最深部に民営企業がかかわっているという不思議な構図が浮かび上がってくる。いや、原子力の平和利用をアピールするためには核エネルギーを扱う電力会社が民営であったほうが好都合であったのだろう。
電力会社は「公」を背負った「私」企業という二律背反のうちに存在しているのだ。「公」を背負っているだけに電力会社の社員はモラルも、モラールも、ともに高いことが想像できる。人々の生活のライフラインを担っているという意味で、経済を土台において支えているという意味で、国家の安全保障を背負っているという意味で、だ。電力会社に勤めている社員は経営者から一介のヒラ社員に至るまで真面目で、前向きで、自分たちの仕事がなければ世の中は真っ暗になってしまうという使命感と責任感がとても強いはずである。私のように社会の役に全くたたないという商売に従事している不良オヤジと違って、電力会社の社員は、本業だけで社会に役立っていると胸を張れるはずである。そうした「誇り」は福島第一原発が過酷事故を起こしたからといって消えるものではなかろう。むろん、原子力発電も含めての「誇り」である。もっとも、そこが消費者からすると偉そうに見えてしまうのである。電力会社のお偉いさんや社員が原発なしの社会は考えられないことや原発の客観的なリスクを真顔で語れば語るほど、民衆は反発を感じてしまうのである。電力会社の過酷事故を起こした企業とは到底思えないような胸の張り方に原発ゼロ社会を即座に実現するのは無理であり、しばらくは原発と付き合うのは仕方ないと思っている私にしても異和感を抱かざるを得ないのだ。
資本主義は20世紀末になると、先進国において第三次産業を中心とする社会へと軸足を移して発展するとともに、消費者主権を実現してきたといって良い。どういうことかといえば、流通(小売り)企業が消費者サイドとの距離を大幅に縮めることで、消費者の最大多数の嗜好が製造企業の命運をにぎったのである。AならAという商品があったとして、消費者がこれを買わなければ、Aという商品の製造企業は市場のプレイヤーとして、いわばリコールされてしまうようになった。当然、製造企業はそうならないために顧客満足度(CS)に細心の注意を払うようになった。価格の安さと付加価値の両立というシビアな課題がモノづくりにかかわる第二次産業に求められるようになったのである。
ところが、電力会社は消費者主権にさらされることがなかった。私は千葉県に住むが、福島第一原発の過酷事故を起こし、放射性物質を撒き散らし、原発周辺に住む人々から故郷を奪った東京電力の電力を使いたくないと個人的に考えても、他の電力会社の電気を購入することができないのである。電気に関しては消費者にとって複数の選択肢が用意されていないということは、民衆が消費者として消費者主権を行使できないということにほかならない。裏返して言えば電力会社にとって消費者は企業活動の生死を決するという市場における八百万神という存在ではなく、あくまでも電力会社が国家になりかわって国策たる原子力という核エネルギーについて啓蒙する対象にしか過ぎないのである。莫大な広告費を投じて原発の安全性をアピールしたのも、電力会社からすれば啓蒙活動の一貫であったに違いない。電力会社は無知で遅れている消費者に対してエネルギーの言わば伝道師として振る舞いつづけてきたのである。だから、消費者からすればフクシマの「痛み」に想像力を働かせるよりも、原発の必要性について真顔で真面目に語ることを優先してしまう電力会社の連中は偉そうに見えるのである。
電力会社が消費者主権の手の届かない場所で市場を謳歌できるのは、電力に関しては市場の厳粛なルールが通用しないということはである。要するに電力会社は日本という国家の容認(=規制)のもとで資本主義を逸脱している国家社会主義的な産業形態なのである。電力市場は統制経済に置かれているということであり、電力会社の「公」性を支えているのは我が国の官僚がそうであるように国家社会主義の倫理にほかなるまい。この国家社会主義の倫理と原子力ほど親和的なエネルギーはほかになかったはずである。原子力を市場に野放しにするということは、核兵器を野放しにするということに等しいのである。平和利用とはいえ、いや平和利用に徹している見せかけるために原子力にとって国家の統制(=規制)は欠かせない条件である。電力会社は原子力を扱うことでが電力会社を支える国家社会主義の倫理を時代に逆行して、消費者からすれば独善としか思えないほどまでに強めていったのである。
もし電力の自由化が見せかけばかりではなく、個人が使う電気を個人で選べるような競合が市場で成立する方向に進めば(発電事業と送電事業の分割は欠かせまい)、原発という国策を背負う電力会社の電気を使わずに済むだろう。しかし、そのとき消費者は自然エネルギーという割高だけれど、安全な電気を果たして選択するだろうか。核エネルギーによって提供される安価な電気を意外にあっさり、安易に選択してしまうのではないだろうか。電力会社や政府は、そう確信しているから、関西電力大飯原発のみならず、「公」性を楯に原発の再稼動に前のめりなのである。電力会社にあって、この前のめりを支えるのもまた国家社会主義の倫理にほかなるまい。そうであれば、この前のめりに対抗できるのは私利私欲に徹底した欲望である。脱原発の運動が退潮するのは、その運動が倫理的な色彩を帯びたときであるということだ。