原子力発電について―関西電力を手がかりに考える

日本全国の原発をすべて稼動せずにこのままの状態で「脱原発」が可能であるかのごとき「気分」や「雰囲気」を「脱原発」運動が醸成しているとしたら、「脱原発」運動は間違いなく敗北することになるだろう。「脱原発」運動の目的が原発依存度をゼロにすることだとしても、既存の原発の安全確認を済ませて再稼動させてゆくという「過程」を抜きにして「脱原発」は果たせないだろうし、ここで原発稼動ゼロの状態を長引かせることは「脱原発」の実現を遅らせることにすら繋がるのだということを「脱原発」派は肝に銘じておいたほうが良かろう。「脱原発」を本気で実現しようと考えるのであれば、当たり前のことだが、段階を踏まない限り無理に決まっているのである。それは原子力基本法に定められた原子力の平和利用を逸脱するような核燃料サイクルの放棄から一歩を踏み出し、エネルギーのベストミックスをどう考えるかというエネネギー戦略を踏まえながら「脱原発」の工程表を作り上げるという作業を抜きにして「脱原発」を実現できないことくらいは言論人であれば最低限、認識してもらいたいところである。目先の「原発ゼロ」を煽るだけの言論に「脱原発」を語る資格などないということだ。原発の危機を煽ることで民衆の素朴な善意や正義感を政治利用することは絶対に許されてはなるまい。「脱原発」の言説を民衆にとってのアヘンとして流布することは、民衆に対する犯罪だということである。
しかし、だからといって、現在、止まっている原発を早急に稼動させることには反対である。原子力の規制にかかわる組織を発足させ、福島第一原発の過酷事故を経験している限り一定の不安を拭えないにしても、この過酷事故の検証をもとに現在考え得る限りの安全基準を策定し、この基準をクリアした原発から再稼動させるという民主、公開の原則に則った手続きを踏む必要があろう。ルールのない民主主義などあり得ないのである。
大飯原発の再稼動問題を通じてわかったことは、福島第一原発の過酷事故を引き起こしてしまった東京電力よりも、関西電力のほうが原発ジャンキーとしては重症であったということだ。関東に住んでいるとわからないことだが、関西電力自身が「関西の電気の約半分は原子力」というコピーをCMで使っていたほど原発依存度が高いのである。関西電力のホームページを見ると関西電力の発電電力量比は平成22年(2010)3月末現在で原子力48%、火力41%、水力11%となっている。その前年の2009年度となると、53.6%と過半を超えている。東京電力原発依存度が約3割ということを考えれば、関西電力原発中毒ぶりが鮮明に浮かび上がって来る。2009年度のデータで言うと九州電力四国電力原発依存度が約半分ということになる。つまり、原発の再稼動問題は西日本の3社から巻き起こって来ることが予想される。昨年、政府が中部電力浜岡原発を停止させると、やらせメール事件などが発覚し頓挫することになったが、九州電力玄海原発再稼動に向けて即座に動き出したのも、背景には九州電力原発依存度の高さがあったのかもしれない。
関西電力のホームページには次のように書かれている。

福井県の若狭地方には原子力発電所が数多く立地し、平成元年度から平成19年度まで日本全体の原子力発電による発電量は第1位にランクされています。平成21年度においても発電量の約27%を占め、そのほとんどが関西に送電され、関西の電力消費の約半分を供給しています。

福井県は平成20年度は福島県に第1位を僅差で譲っているものの、平成17年から平成21年までの5年間のうち4年は福井県原子力発電量ではダントツの1位で、福井県は日本の原子力発電量の4分の1強を占め続けている。即ち、関西電力は日本の原子力発電量において4分の1以上を占めていることがわかる。つまり、「脱原発」はむろんのこと、「減原発」の立場からしても関西電力原発依存度をどう減らすかが問われていることになる。
福井県にあって関西電力原子力発電を担うのは美浜、高浜、そして再稼動問題に直面している大飯ということになる。敦賀原発もあるが、これは東海原発同様に日本原子力発電のものである。昨年の福島第一原発の過酷事故以前に定期検査に入っていたのは美浜1号機、高浜1号機、大飯1号機、大飯3号機。事故以後に定期検査に入ったのは美浜2号機、美浜3号機、高浜2号機、高浜3号機、高浜4号機、大飯2号機、大飯3号機ということになる。当初の予定からすると美浜1号機、高浜1号機、大飯1号機、大飯3号機は昨年の4月〜7月の間に定期検査を終えて再稼動するという段取りであったのだろうが、福島第一原発の過酷事故を踏まえて再稼動に慎重になっていたからだろう。では4機の再稼動候補のうち大飯1号機、大飯3号機が選ばれたかというと、美浜1号機と高浜1号機は老朽化という問題があるからであろう。美浜1号機の運転開始は1970年11月であり、高浜1号機は1974年11月である。政府は福島第一原発の過酷事故後、原子炉等規制法の見直しを進め、原発の運転期間を原則として40年に制限する方針を打ち出している。もっとも例外的に最長20年の運転延長が認められることになった。とはいえ、運転開始から40年を超えた美浜1号機や運転開始38年が経つ高浜1号機(「アトムくん」の愛称を持つそうだ)の再稼動は世論の動静を鑑みても、ハードルが高いと考えたに違いない。その点、大飯1号機の運転開始は1979年3月、大飯3号機の運転開始は1991年3月と新しいし、関西電力のホームページによれば「原子炉格納容器は、現実に起こりそうもないような事故を想定して、大きな圧力に耐えるだけの強度および耐震性を考えて設計」されていて、「万一の事故時にも強い安全性を確保」しているという、まあ関西電力からすれば自慢の原発であるらしい。それだけに関西電力にしても、政府にしても大飯原発の再稼動に前のめりになったことがうかがえる。
原子炉等規制法の見直しで原発の運転期間が原則40年となると、しかも20年までは可能とされる延長期間のハードルが高く設定されると、関西電力原発廃炉問題に次々に直面することになる。何しろ美浜1号機は40年を超えているし、美浜2号機も今年の7月に40年を迎え、再来年の2014年11月には高浜1号機が、2015年11月には高浜2号機が、2016年12月には美浜3号機が40年を迎えてしまうのだ。関西電力からすれば何とか例外的に運転延長に持ち込みたいところだが、美浜2号機は1991年2月9日に蒸気発生器の伝熱管が破損し非常用炉心冷却装置が作動するレベル2の事故を起こしているし、美浜3号機は2004年8月9日に配管破損事故起こし、レベル1の事故ではあるが、配管破損により多量に噴出した高温高圧の水蒸気で逃げ遅れた5名が熱傷で死亡させている。関西電力原子力発電事業にとって大飯原発は生命線なのである。逆に「脱原発」派や「減原発」派、「脱原発依存」派にとって美浜原発廃炉を確実に実現させるべく世論の喚起をはかることが重要なはずである。私は以前にも書いたように「後ろ向きの原発維持派」であるが、原発の運転を原則40年と定めた以上は例外をポンポンと認めてはならないと思っている。私のような「後ろ向きの原発維持派」は結果的に「減原発」派ということになるのかもしれない。ちなみに敦賀原発の1号機も1970年3月の運転開始だから老朽原発に数えられる。敦賀1号機は2009年12月をもって廃炉になる予定であったが、運転の継続を原子力安全・保安院に申請し、これが2009年8月に認められ、2016年までの延長に向けて準備が進められてきたが、この原発の動向も今後に大きな影響を与えることだろう。
これも注意が必要なことだが、関西電力ほどの原発ジャンキーとなってしまうと、電力の安定供給のためのみならず、関西電力という企業の存亡にとって原発は欠かせなくなってしまったということだ。東京新聞5月12日付「こちら特報部」の「国民に破綻経営のツケ回し〜東電、関電の傍若無人」は次のように書いている。

先月二十七日に関西電力発表した十二年三月期連結決算によると、純損益は過去最大の二千四百二十二億円の赤字。火力発電所の燃料費などが膨らんだ結果だった。
十三年三月期の損益見通しは示さなかったが、政府は再稼働できない状態が続けば、七千二十億円の赤字になるとの試算を明らかにしている。
加えて、有価証券報告書などによると、同社の純資産約一兆五千三百億円(連結)のうち、原発施設と核燃料だけで約八千九百億円。再稼働できずに廃炉になると、資産は半減。仮に廃炉にならなくても、数年中に債務経過に追い込まれる。数字からは、経営危機が再稼働の最大の動機であることが浮かび上がる。

原価償却を終えた老朽原発を数多く抱えていればいるほど、原発は儲かるということだ。そういう意味で関西電力原発依存度を過度に高めていったのは企業として当然の生理であったともいえる。原発なしでは経営が成り立たないという企業体質を身につけてしまったことに原発ジャンキーの本質があるのだ。関西電力としては、たとえ老朽化し、原子炉等規制法の見直しで原発の運転期間が原則40年となっても、そう簡単には新しい方針を受け入れられまい。何としても延長に持ち込むべく、その政治力を行使するに違いない。
一方―。「脱原発」でも、「減原発」でも、「脱原発依存」でもそうだが、これを実現するためには廃炉コストの負担の有り様も含めて電力会社の経営をどうするのかという提案なしに綺麗事を言うだけでは済まされないということでもある。原発推進は国策として進められて来た以上、原発推進を国策として推進する政治を選挙で選んだ「国民」も相応の責任を負う覚悟が求められている。発電と送電の分離というだけではなく、廃炉も含めて原子力発電事業を国営にするというオプションも含めて様々な議論が必要になって来るはずである。東京電力関西電力を単純に悪役に仕立てて鬱憤を晴らすだけでは済まされないはずだ。「原発推進」を補強する役割しか果たさないような「反原発」を一掃しない限り、「脱原発」も、「減原発」も、「脱原発依存」も所詮、画餅に終わることだろう。福島第一原発の過酷事故を経験しても何も変わらなかったでは、それこそ核エネルギーという「科学」に対して余りにも無責任というものである。「原発推進」から「脱原発」に至るまで無責任では済まされないのである。