私が後ろ向きの原発維持派である理由を述べよう

昨日が「原発ゼロ時代に挑む 運転42年 全50基が停止」で、今日が「『原発ゼロ未来へつなぐ』 立ち上がる 子どもの日」と、連日にわたって東京新聞は「原発ゼロ」を一面に大見出しで掲げた。
脱原発」に最も熱くなっているのが新聞では東京新聞であることに間違いはない。私の知人にも脱原発派が何人かいるが、彼らはみな朝日新聞から東京新聞への転向派でもある。こうした読者は意外に多いのかもしれない。確かに朝日新聞毎日新聞にしても社説などを読む限り、脱原発に舵を切っているが、脱原発のデモや集会の写真が一面を飾るのは東京新聞だけである。私がそれまでの禁を破り、何十年かぶりで「小沢デモ」に参加したときには、どの新聞もデモという民衆の直接民主主義的な表現に冷たかったものだが、随分と変わったものである。
しかし、新聞をはじめとしたメディアが過度に「原発ゼロ」を煽ることを私は是としない。経済産業相枝野幸男が口を滑らしてように「一瞬ゼロ」になったに過ぎない。北海道の泊3号機が定期検査に入ったことにより、国内の原発全50基が発電を止めたことによって、「原発ゼロ」が未来永劫にわたって続くかのように、あるいは「原発ゼロ」を未来永劫にわたって続けなければならないかのごとく説く無知蒙昧な言論や運動に「脱原発」を語る資格など一切なのである。私はそうした類の政治屋には一切与したくないことをここにはっきりと宣言しておく。
私は「反原発」という宗教的な誇大妄想を最初から信じていないが(バカにはしている)、仮に「脱原発」社会を実現するにしても、条件が整えば現存する原発の再稼動は避けられまい。「脱原発」は段階的にしか実現できないのであり、数年で達成されるような話ではないのである。どんなに急いでも20年や30年はかかるものなのである。
このことを前提としない「脱原発」は思想的な詐欺いがいのなにものでもなかろう。特に「脱原発ムラ」の「御用学者」には「原子力ムラ」の「御用学者」以上に吐き気がする、と書いてしまっては私が思考停止してしまうことになるのだが、そう書かざるを得ないほど、一部の「脱原発」は運動として頽廃して来ているし、思想として腐りきっているのだ。そんな私からして、真っ当な「脱原発」を説いている政治家は河野太郎ぐらいしか不幸にして未だ目にしていない。河野は5月6日付東京新聞に登場して次のように述べている。

「僕は脱原発派だが、かといってずっと再稼動させなくていいわけではない。新組織が安全基準を見直し、それに照らして最低限を再稼動するのが正当な手順だ」

同じ紙面には「野田首相を支持する議員グループの中心メンバー」だという近藤洋介も登場して次のように述べている。

「技術的に安全性は十分だと思っている。ストレステストも含めてずっと詰めてきた。プロセスにおいて、拙速だとは思わない」

恐らく私は後ろ向きではあっても、原発維持派ということになるのだろうが、近藤の見解には同意しかねる。原子力規制庁なりを発足させ、そこで福島第一原発の過酷事故を総括し、その反省を踏まえて、安全基準を打ち出し、再稼動を決断するのが考えられる唯一正当な手続きであろう。原発の再稼動に当たっては自主、民主、公開の原点に立ち戻る必要があるということだ。その間は「原発ゼロ」を凌ぐしかあるまい。そういう意味で消費増税に前のめりになるばかりで、原発問題を野ざらしにしていた政府の責任は重いはずである。
首相の野田佳彦は政策課題の優先順位を間違えていると思っている。まるで3.11などなかったかのように消費増税というテーマ一本槍に突き進む政府の姿勢に違和感を覚えるのだ。政府のこうした姿勢が「反原発」という擬似宗教にまで一定の存在感を与えてしまっているのではないだろうか。「反原発」や一部の「脱原発」は民衆にとってアヘンでしかないことを私はここで確認しておきたい。かつて吉本隆明は『反核異論』で次のように述べたが、この見解は福島第一原発の過酷事故以後も有効であるはずだ。

自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。また物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している。これが「核」エネルギイにたいする「本質」的な認識である。すべての「核」エネルギイの政治的・倫理的な課題の基礎にこの認識がなければ、「核」廃棄物汚染の問題をめぐる政治闘争は、倫理的反動(敗北主義)に陥るほかないのだ。山本啓の言辞 に象徴される既成左翼、進歩派の「反原発」闘争が、着実に敗北主義的敗(勝利可能性への階程となりえない敗北)に陥っていくのはそのためだ。

3.11以前に大手を振ってまかり通っていた原発の絶対安全神話なるものも原子力の平和利用には欠かせないはずの「自主・公開・民主」を軽んじてきた原子力推進派と「『核』エネルギイにたいする『本質』的な認識」を基礎にすることができなかった「反原発」派の共犯関係による産物と言えなくもあるまい。
さて何故、私が後ろ向きではあっても原発維持派かといえば、その根本的なところで言うと、人類が一たび切り拓いた科学技術は、その科学技術を無化するような科学技術が出現しない限り、嫌であろうと何であろうと原子力=核を無効化するような科学革命が起きるまではそうたやすく手放すことはできないのである。このことが何を意味しているかと言えば原子力推進派にとっても原子力は過渡期のエネルギーでしかないということだ。しかし、現段階では原子力も含めて火力、水力、地熱、太陽光、風力などをベストミックスしなければ安定した電力供給は維持できまい。原子力を選択肢から即座に外せるかのような幻想を決して抱いてはなるまい。
そもそも「脱原発」派に「原子力利用からの撤退のシナリオ」はあるのだろうか。自然エネルギー礼賛も結構だが、大半が民主党のマニュフェストと同じ類のものではないのか。言ってはみたけれど、やっぱり実現できなかったのが民主党のマニュフェストである。エネルギー安全保障をそう甘くみるべきではないのだ。もっとも「原発ゼロ」になれば自ずとその限界が露呈してくるはずであり、多くの「脱原発」論は「着実に敗北主義的敗(勝利可能性への階程となりえない敗北)に陥っていく」に違いあるまい。だから、私も「原発ゼロ」は歓迎している。ただし、原発を再稼動する局面を迎えたとしても、関西電力原子力に対する依存度が高過ぎると思われるので、関西電力原子力依存度を引き下げる努力が必要なはずだ。「原発ゼロ」を機会に関西電力はベストミックスのあり方を修正すべきであろう。
私が原子力維持派であっても「後ろ向き」だというのは、原発がどんなに安全に配慮してつくられ、稼動されていても、そのリスクから逃れることは不可能だからである。原発であれ、何であれ「絶対安全」など神話としてしか存在しないのである。そうであればベントにフィルターを装着するのは当然の義務であるはずなのだが、原子力推進派が絶対安全神話に絡め取られてしまった結果、「もしも」の事態に対する準備が十分ではなかった。再稼動の安全基準においては、こうした「もしも」の事態に際しての備えの有無も欠かせまい。
最後になるが、私が真っ当な「脱原発」派に寄り添えるとしたら、核燃料サイクルの放棄という、ただ一点であろう。核燃料サイクルには潜在的核抑止力という軍事の影がべったりと張り付いており、どう考えても原子力の平和利用にそぐわないからである。日本が核燃料サイクルを維持したままで、例えば対米自立を図ったならば日本は世界からどう見られるかを考えてみる必要があるだろう。日本はイランのごとく危険な国とみなされる可能性もあるのである。核燃料サイクルアメリカのお許しなくしては取り組めなかったのである。