日本国憲法について考える―私たちは一度も憲法を選び取っていない!

改憲は悪いことではない。憲法を変える必要があれば変えれば良い。普通であれば、それだけのことである。ただし日本国憲法という憲法は普通ではない。なぜなら、私たちはこの憲法を選び取ってはいないのである。立憲君主制なり、共和制を前提にして日本国憲法を名乗るのであれば、その憲法を制定する主体は日本国民にあるはずなのだが、日本国憲法はその成立過程から言って、アメリカの出先機関であるGHQから押し付けられた憲法であると言って良い。しかも、その押し付け方は大日本国憲法の改正という形を取るなど実に巧妙であり、かつ日本国憲法で「主権が国民に存する」と宣言された「国民」は蚊帳の外に置かれたまま極秘裏に進められたのは紛れもない歴史的事実である。日本国憲法の制定過程を振り返ってみよう。
GHQによる占領後の日本における最高権力者はマッカーサーであったが、マッカーサーと1945年10月4日に会見し、大日本国憲法改正の示唆を受けたのは東久邇宮内閣の副総理格で国務相の近衛文麿であった。当時、政府はいずれ大日本帝国憲法の改正をGHQから求められるとは予想していたものの、それほど緊急を要するものではないとタカを括っていたらしい。だから東久邇宮内閣は治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など、「自由の指令」の実施を近衛がマッカーサーと会見した同じ日に命じられると、そんな指令は実施できないとして総辞職してしまう。ところが、根っからのお調子者である近衛文麿マッカーサーから個人的に相談されたかのごとく早合点し、幣原喜重郎内閣で閣僚から外されたにもかかわらず、内大臣府御用掛の立場から政治学者の高木八尺憲法学者の佐々木惣一、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を続ける。
一方、幣原喜重郎も10月11日にマッカーサーから「憲法自由主義化」を要求され、松本烝治国務相を委員長とする憲法問題調査委員会を10月25日に発足させて、改正草案の作成に着手する。内大臣府と憲法問題調査委員会の二本立てで進められる格好となったが、マッカーサーは近衛の梯子をあっさりと外してしまう。11月1日、GHQ内大臣府の憲法改正に向けた動きには一切関知しないと表明する。マッカーサーが近衛に示唆した憲法改正作業は、近衛個人に対してではなく、政府に対して行ったものであるとしたのである。それでも近衛文麿は作業をつづけ、11月22日に近衛案、11月24日に佐々木案を昭和天皇に奉答するもののGHQ内大臣府廃止の指示を出し、11月24日に内大臣府は廃止される。近衛文麿A級戦犯として巣鴨拘置所に出頭を命じられると、その最終期限日の1945年12月16日未明に青酸カリで服毒自殺を遂げる。
憲法問題調査委員会は10月27日から審議を重ね、1946年2月8日に「憲法改正要綱」をGHQに提出する運びになっていたが、その概要が2月1日に毎日新聞によってスクープされてしまう。それは統帥権独立を否定し、非常大権を廃止していたが、天皇統治権者とする大日本帝国憲法の基本構造には手を加えていないものであった。戦前に確立した民主主義の地平は美濃部達吉天皇機関説による憲法学に他ならないが、日本は戦争を本格化させるにあたって美濃部憲法学を排撃したことからすれば、大日本帝国憲法をイギリス型の立憲君主制に倣って運用すればGHQの意に沿う民主主義は実現できると考えていたのだろう。しかし、GHQ民生局にとってみれば美濃部憲法学でさえ非民主的なイデオロギーとして目に映ったに違いない。
GHQ民生局長のホイットニーは、毎日新聞の記事を分析した結果、憲法問題調査委員会のプランは大日本帝国憲法の字句に若干の修正を施したものに過ぎないととして、GHQによる草案作成の必要性をマッカーサーに進言する。2月3日には①天皇は国家の元首の地位にある。皇位世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする(立憲君主制)②国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない(戦争放棄)③日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと(封建制度の廃止)を三原則とするマッカーサー・ノートが民生局に提示される。
民生局は、この提示を受け、自由裁量で憲法草案づくりに2月4日から着手する。つまり、日本国政府GHQ憲法試案を2月8日に提出するが、GHQは独自の草案づくりに舵を切っていたのである。しかも、草案作りに着手してから、たったの6日間で起草を完了させてしまったのである。マッカーサーはこの草案を一部修正したうえで了承し、最終的には2月12日に草案は完成し、翌13日に日本の政府に松本試案を正式に拒否するとともに「マッカーサー草案」として手渡されることになる。腰を抜かしたのは日本国政府であった。閣議では意見が割れたが、政府は逡巡の後、2月22日に受け入れを決定する。ちなみに昭和天皇GHQ案を支持した。
政府はGHQと合議の上、3月6日に憲法改正草案を正式に発表する。この草案は正式に枢密院の諮詢を経て、6月20日に第90帝国議会に提出され、衆議院で2か月、貴族院で1か月審議され、多少の修正が加えられたうえで憲法改正案として可決された。両院での憲法改正に対する反対者は少なかった。議会もGHQの意向を汲んだのである。改正案は枢密院の可決後、天皇の裁可を経て、11月3日に公布され、翌1947年5月3日から施行された。
こうして日本国憲法前文に主権者として位置づけられた国民の意志を確認することなく、日本国憲法大日本帝国憲法の改正という手続きを踏んで公布され、施行される。アメリカは圧倒的な軍事力を背景にして憲法を押し付けることに成功したのである。戦争放棄の平和主義を高らかに謳いあげた次のような憲法9条もまた然り。そこにはアメリカの影が、アメリカの軍事力が、アメリカの原爆がつきまとっているのである。このことに日本の左派やリベラルなど、その後に護憲を叫ぶ連中は許し難いほど鈍感であった。

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

確かに大日本帝国憲法にあっては改正に際してたとえ国民投票を必要としていなかったにしても、護憲派の圧倒的な弱点は日本国憲法を選び直すという視点を遂に持ち得なかったことである。護憲派は欺瞞に生きることを是としてしまったのである。あろうことか、平成になって、やっと登場した加藤典洋の『敗戦後論』(1997)の問題提起を無視してしまう、孤立させてしまう。それどころか加藤の『敗戦後論』を悪しきナショナリズムの言説として葬り去ろうという勢力さえ出現する始末であった。加藤は『敗戦後論』で次のように書いている。私からすれば、加藤はここで至極真っ当なことを述べているのだ。

…わたしの考えは簡明で、わたし達はいまからでも遅くないから、やはり現行憲法を一度国民投票的手段で「選び直す」必要がある。日本国憲法には憲法改正のための条項があり(第九六条)、それは各議員の総議員の三分の二の賛成と国民投票による過半数の賛成という条件を明記している。わたし達はその条項に訴えて、たとえば平和条項を手に取るのか、捨てるのか、選択すればよい。その選択の結果、たとえ第九条の平和原則が日本国民により、捨てられたとしても、構わない。わたしは個人的には、この平和原則をわたし達にとり、貴重なものと考えるから、こういう事態は好ましくないが、しかし、憲法がタテマエ化し、わたし達の中で生きていない現状よりはましである。

もし、護憲を言うのであれば、その前提となる日本国憲法が民主主義に欠かせない手続きを踏んだうえで私たちのものでなければならないという、この至極真っ当な見解を黙殺したままに、例えば憲法9条を守ろうというのは、思想的な倒錯であり、頽廃ではないのだろうか。誤解を恐れずに言えば、護憲派は時が経てば経つほど保守派に堕落するしかなかったリベラルや左派の無惨さを体現してしまっているのだ。大阪市長橋下徹憲法9条を国民投票にかけようと提案に受けて立とうという声が護憲派から上がらないことを堕落と言わずして何と言おう。橋下は次のようにツイートしたことがある。

しかし憲法9条問題こそは、国民の価値を束ねて行くことが政治の役割だと思う。自らの価値を前面に出すのではなく、国民に潜在化している価値を顕在化していく作業。単なる議論で終わるのではなく一定の結論を出す。そういう意味では、憲法9条問題は選挙で決するのではなく、国民投票にかけるべきだ。2012年2月25日 - 9:43

投票を避けようとする護憲派よりも、投票を呼びかける橋下のほうが、私からすればよほど民主主義的なのである。投票こそ民主主義の根幹にあたる部分である。たとえ次のようにツイートする橋下であっても、だ。いや、次のようにツイートする橋下なればこそ、投票を受けて立つべきだろう。護憲派は橋下の改革路線からすれば「決められない政治」の諸悪の根源に映っていることであろう。

世界では自らの命を落としてでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています。 2012/02/24 13:16:26

護憲派憲法に関して単なる保守派に転落させたのは、憲法改正のハードルが高いことに起因していると言って良いだろう。そう簡単に憲法が改正されることはあるまいとタカをくくり、押し付けられた現状に胡坐をかいたままの姿勢で惰眠を貪っていたのである。護憲派の堕落や頽廃は惰眠を貪っていることで始まったのである。憲法96条にはこうある。

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

選挙にどんなに圧勝しようとも衆議院参議院でともに三分の二以上の議席を獲得するのは至難の業と言って良いだろう。そこに護憲派は甘えてしまったわけだが、実はこの三分の二以上というハードルは必ずしもアメリカが押し付けたものとは言い切れない。その起源は次のような大日本帝国憲法73条にあるというべきであろう。

將来此ノ憲法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝國議會ノ議ニ付スヘシ
②此ノ場合ニ於テ兩議院ハ各々其ノ總員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多數ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ爲スコトヲ得ス

そう護憲派大日本帝国憲法の伝統に甘えているという意味でも保守派なのである。いずれにせよ、私たちは明治維新以来、一度も憲法を選び取っていないのである。そのどこが民主的なのだろうか。私は憲法を選び取ったうえで「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という憲法13条や「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法25条に胸を張りたいのである。むろん、そのときは憲法9条がパリ不戦条約(1928)同様に「美しき誤算のひとつ」であったとしても支持しようではないか。
護憲派の「護憲」というイデオロギーの最大の罪は日本国憲法を薄汚れたまま放置してしまったことである。