ゲンパツと核武装について考える

「心から、心から、心から」
首相の野田佳彦は政権与党たる民主党から大量の造反者が出るものと思われる消費増税衆院での可決を前に同じ言葉を繰り返した。オウム真理教麻原彰晃の説法と同じヤリ口である。そう言えば前首相の菅直人も「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と言っていた。人を説得するというよりらも、騙すにあたって同じ言葉の連呼は効果的なのであろう。同じ言葉を連呼するのは麻原、菅、野田の何も専売特許ではない。進歩派とか、リベラルと呼ばれる範疇に入るであろう連中やこうした連中を煽動するだけ煽動し、いざとなれば真っ先に自らを安全圏に置くことを習性としている署名バカ、演説バカの文化人もまた同じ言葉の繰り返し、だ。曰く「大飯原発再稼動反対!」。
私からすると彼にもまた麻原や菅、野田と同じ精神構造の持ち主にしか見えないのである。彼らの病んだ精神構造に共通しているのは、自分たちは民衆のために良いことをしているのだという自己愛の妄想を抱いている点である。確かに一部の人間は騙せるのだろうが、騙せるのはほんの一部にしか過ぎまい。
私たちと敢えて言わせてもらおう。私たちはそれほどバカではないし、頓馬でもない。民衆の日々の生活が蓄積する経験を軽視すべきではないのだ。民主党の連中も含めて、進歩派、良心派と自称他称している連中が最悪なのは、ゴリゴリの保守連中よりも民衆を平気で蔑視するからである。だから、啓蒙主義や前衛主義の末路は決まっているのだ。民衆に見捨てられた終わりなのである。そうしてスターリニズムファシズムの傘に逃げ込む。何度も何度も繰り返してきた歴史的風景を懲りずにまた繰り返すのだ。
私は彼らの本性を知っている。もともとマッキャベリの孤独に耐えられるだけの度量など持ち合わせていないのだ。恐らく、この手合いは産経新聞が書いた社説に眉をしかめるに違いあるまい。産経新聞は6月25日付の社説で7月から牛のレバ刺しがご法度になったことに対して、放射線を当てれば問題は解決すると堂々と主張してみせたのだ。やるじゃないか!産経新聞

 7月から厚生労働省が飲食店での提供を禁止する牛の生レバー(肝臓)も、放射線の性質を上手に利用すれば、高齢者や幼児も安心して食べられるようになるという。
放射線による消毒の安全性については、世界保健機関(WHO)や国際原子力機関IAEA)が「問題ない」と評価している。厚労省は、放射線のリスクばかりでなく、こうした放射線利用の有用性についても、国民の理解を求めていく必要があるだろう。

放射線を利用すればレバーも、ユッケも食べられるようになるというのに厚労省は「安全に食べる有効な対策がない」とまで言い切ったのだろうか。福島第一原発の過酷事故で放射線に対する風当たりが強いので、放射線照射が国民に受け入れられ難いという、これまた民衆蔑視の偏見が牛のレバ刺しを食品衛生法で禁止してしまったのである。科学的知見を生かそうとしないという点でこの決定は反動いがいの何ものでもあるまい。
確かに再稼動の準備を進める関西電力大飯原発に対して、再稼動に反対する各地で開かれているデモに多くの人々が集まっているという。東京新聞には時折、そうしたデモの様子を伝える写真が掲載されている。もっとも、そんな東京新聞であっても首相官邸前で開かれた「6.15」のデモの様子は伝えていない。6月15日の持つ意味など、どうでも良いのだろう。東京新聞リベラリズムはその程度の質なのである。60年安保は遠くなりにけり。国会をデモ隊が包囲し、流血の事態となり、樺美智子という女子学生が殺された日である。
大飯原発再稼動反対の首相官邸前のデモに6月15日には1万1千人、翌週の22日には4万5千人が集まったという。原発に対するやり場のないストレスやフラストレーションを解放するという意味では、こうしたデモは参加者の健康に貢献することであろう。しかし、私はそれ以上の価値をこの手のデモに認めない。何故なら敗北主義(=倫理的反動)に終らざるを得ないことは目に見えているからだ。もっと言えば民衆の「本隊」はそこにいないのだ。民衆の「本隊」がどこにいるのかといえば、福島第一原発の過酷事故を目の当たりにし、原発の怖さに震えながらも、原発の一定の再稼動は仕方がないだろうと耐え忍んでいる姿こそが民衆の「本隊」にほかなるまい。
政府からすればデモの関心が大飯原発に集まることは最も都合の良いことなのである。核燃料サイクル廃炉問題に関心が集まらないのだから。「おとなしいヒトラー」たる野田佳彦はやるべきことはしかとやり遂げているのだ。憲法九条に第二項を加えて、自衛隊による再軍備の道筋を用意したように原子力規制委員会設置法の付則を通じて、原子力憲法ともいえる原子力基本法に「安全保障に資する」という一文を潜り込ませ、将来の核武装を否定しない立場を担保してしまったのである。安倍晋三福田康夫内閣で渡辺喜美行政改革担当大臣の補佐官を務めたという原英史あたりからすれば、「条文をきちんとみれば、『原子力利用は平和目的に限る』という点が何ら変更されていないことは明らか」ということだが、本当にそうだろうか。改正された原子力基本法第二条にはこうある。

(基本方針)
第2条 原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。
2 前項の安全の確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする。

私はこれにより、原子力を平和目的に限った安全保障のために使うことは許されるという解釈が必ず生まれることになると思っている。憲法九条の第二項と同じ理屈を成立させることは可能なはずだ。ちなみに憲法九条を見てみよう。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」のであって、自衛権は否定しないという解釈が第二項に「前項の目的を達するため」を挿入することで担保されているのだ。改正原子力基本法も同じである。原子力を平和目的に限った安全保障のために使うことは可能であると解釈できるのである。即ち核武装である。「核」を攻撃的な兵器であると思ったら大間違いである。
誤解されることを覚悟で言ってみることにする。
単に戦争がない状態をもし「平和」というのであれば、日本は核武装をしたほうが、戦争をせずに済むだろう。ある意味、核ほど防衛に徹底した戦力はほかにあるまい。核抑止論が語られるのは、このためである。実際、核保有国が侵略を受けるということはこれまでなかったはずだ。誰もが核戦争を恐れるから、均衡が保たれるのだ。均衡とは戦争がない状態にほかならない。戦争がないことを「平和」というなら、核武装は間違いなく「平和」に貢献する。国連の常任理事国でこのように考えない国家は一国としてあるまい。日本は50基以上の原子力発電所を抱え、核燃料サイクルにも取り組んでいるのだから、日本にとって核武装はたやすいことであるし、宇宙開発の技術力からすれば、どこにだって撃ちこめる技術力もある。原子力規制委員会設置法が成立した同じ日に宇宙機構法も改正され、平和目的に限定していた規定が削除されている。技術的に核武装できる能力を持つだけではなく、こうした法改正によって日本がいつでも核武装することを可能にする道筋をつけたのである。日本が核武装すれば、かつて大東亜戦争で経験した日本本土を焦土と化すような事態はあり得まい。核保有も自衛力として位置づけるのであれば第二項もあって、核武装が最も憲法九条に抵触しない断言することも可能である。
しかし、日本本土を焦土と化した経験から核武装を永久に放棄すると世界に向けて発信する、文字通り「平和立国」を宣言する方法もあるだろう。そのためには原子力基本法から「安全保障に資する」という一文を削除する必要があるだろう。私が言う「平和立国」の「平和」とは単に戦争がない状態を指すのではない。積極的に「平和」を構築する立場である。こう言うと格好良いが、「平和立国」には相応の覚悟が必要だ。日本が侵略されるという可能性は核を保有するよりも、はるかに高まるはずである。そういう意味で言うのなら、核の永久放棄は核保有よりも勇気が必要である。国家に勇気が必要なのではない。民衆に「もしも」を覚悟する勇気が必要なのである。こうも言えるかもしれない。核保有は民衆を去勢し、核放棄は民衆に流血の覚悟さえも求めるのだと。
私は侵略の可能性に怯えながらも、なお「平和立国」を選択したい。原発の再稼動に怯えながらも、再稼動に耐えるのと同じことである。