政府は9月14日、政府は関係閣僚らによるエネルギー・環境会議を開き、「2030年代に原発稼動ゼロを可能にするよう、あらゆる政策資源を投入する」と明記した「革新的エネルギー・環境戦略」を決定した。「原発稼動ゼロ」という表現を使ったのは、世論に抗えなかったからだろう。しかし、2030年代に「原発稼動ゼロ」を可能にするのであって、実現するのではないところに経済界など原発が稼動しなくては困ると主張していた勢力にも一方で配慮を見せていることがわかる。そういう意味では玉虫色の戦略であり、玉虫色であるということは、脱原発戦略としても、原発維持・原発推進戦略としても、ともに矛盾を孕んでいる。到底、革新的と言えるような代物ではない。
原発問題では最左派に位置する東京新聞は9月15日付朝刊で「三〇年時点での原発依存度は実質的に15%になる。多くの国民が求めたすべての原発からの脱却を含め、三〇年までの稼動ゼロから大きく後退した」と批判した。この間、政府は総発電量に占める原子力発電の比率に関して、0%、15%、20〜25%の3案を提起し、パブリックコメントを求めたり、意見聴取会や討論型世論調査を実施したが、その結果は0%支持が最も支持を集めたわけだが、政府の「原発稼動ゼロ」は2030年ではなく、2030年代とすることで、今回の決定は「原発稼動ゼロ」を謳いながらも、実質的にはそれほど国民の支持を得なかった15%案に依拠しているというわけだ。
最右派の産経新聞も黙ってはいない。9月15日付「展望なき選択」では見出しを「選挙目当て民主の愚作」と打ち、冒頭で経産省幹部のコメントを掲げている。「支持率低下で大敗が予想される民主党が、原発政策を推進できるはずがない。民主党議員には、地元で土下座して原発を誘致した自民党議員のようなまねはできない」と。確かに民主党は政権交代を実現した2009年マニフェストには記されていなかった消費増税を強行したこともあって、支持率の低下が著しく、政権復帰の可能性が現段階では高い自民党に対抗するために「脱原発」を打ち出す必要があったのだろう。言わばポピュリズムに汚染された「脱原発」であると見ることも、2009年マニフェストがそうであったように民主党ならではの羊頭狗肉の「脱原発」であると冷ややかに見ることも可能であろう。しかし、「革新的エネルギー・環境戦略」の歯切れの悪さは、その責任を民主党ばかりに押し付けることもできないだろう。私は「革新的エネルギー・環境戦略」に書かれた次のような箇所に注目した。
我が国は、核不拡散条約を批准し、厳格な保障措置制度の下で原子力の平和的利用を進めてきた。また、日本の核燃料サイクル政策を含む原子力政策は、米国をはじめとして、諸外国との密接な協力体制の中で行われている。原発に依存しない社会の実現に向けた政策の見直しに当たっては、国際機関や諸外国と緊密に協議し、連携して進める。
アメリカに配慮した文言であることは間違いあるまい。わかりやすく「翻訳」すると「原発稼動ゼロ」社会はアメリカが首を縦に振らない限り実現しないと言っているに等しいのだ。9月15日付東京新聞が二面「米圧力で『骨抜き』」で書くように「革新的エネルギー・環境戦略」を「決定間際に野田佳彦首相が最も心を砕いたのは『原発ゼロ』に不快感を表明した米国の意向」にほかならない。産経新聞が「展望なき選択」で書くように原発政策は「日米の安全保障にも関わる問題」なのである。この記事によればAPEC首脳会議が開かれたウラジオストクで野田首相と会談したアメリカのクリントン国務長官は「『原子力政策は日米にとって重要な問題。緊密な議論を続けていかなければいけない』とし、原発ゼロに向かう日本を牽制した」のである。野田はクリントンに「沖縄に配備予定の米新型輸送機オスプレイが米国で市街地に緊急着陸したことについて『日本国内で安全性への大きな懸念が寄せられている』と伝えた」(9月9日付朝日新聞)が、クリントン国務長官から伝えられたのは日本が決めようとしている「原発稼動ゼロ」に対する懸念であったのだ。東京新聞は「米圧力で『骨抜き』」で、こう書いている。
米側のけんまくに、政府は当初予定の十日決定を先送り。長島氏と大串博志内閣府政務官を慌てて米国に派遣する事態になった。中国、韓国との領土問題をめぐっては、冷静な対処を基本方針とする一方、時には強気な姿勢をみせるのとは、実に対照的だ。
沖縄県の米軍基地再編問題などで、野田政権の対米追随は顕著になっている。政府内からでさえ「今回は内政干渉だ」との声が出ている。
アメリカが日本の原発政策で日本にプレッシャーをかけてくることは私も8月28日付のエントリで元国務副長官のリチャード・アーミテージとハーバード大学教授のジョセフ・ナイというアメリカにおける知日派の重鎮二人の名前を冠した政策提言書が8月15日にアメリカカのシンクタンク「戦略国際問題研究所」から発表されたが、そこに日本は今後も原発を推進せよと明確に書かれていた段階で予想されていたにもかかわらず、民主党政権ならではのドタバタ劇が展開されたというわけである。産経新聞の「展望なき選択」も、この報告について次のように書いている。
アーミテージ氏とハーバード大のナイ教授の共同執筆による報告は、米政権交代期に合わせた日米同盟や対日政策に関する提言書の性格を持つ。今回の報告で注目されるのは、序文に続く各論のトップに、「エネルギー安全保障」の章を置いたことだ。
「日米は、国際的にも国内的にも安全で信頼性の高い原発利用促進に政治的、商業的な利益を共有しており、原子力関係の同盟協力を再活性化すべきだ」−。こうした言及は、政府の新戦略発表を予期したからにほかならない。
報告は、福島第1原発事故後、野田首相が大飯原発3、4号機の再稼働に踏み切ったことを「正しく責任ある判断」と評価した。
一方、世界最高水準の原発技術を駆使し、省エネルギーや効率化でめざましい発展をしてきた日本が、原発の維持や再稼働を断念するようでは、「短期的にも深刻な影響を日本にもたらす」と警告している。
とりわけ懸念されるのは、原発ゼロが日米同盟と国際関係に与える影響だ。
日本は米国と原子力協定を結び、平和利用に特化して原子力関連の研究開発を進めてきた。だが、「多くの途上国が原発建設に向かう中で、日本が原発の永続的停止に踏み切れば、国際的な原子力開発という責任を阻害」してしまう。
インドやベトナムなど原発建設を進める途上国に、日米が協力して安全で信頼度の高い原発や利用技術を広めていくことが、国際政治面で核不拡散に役立つとともに、日米の商業的利益にもかなう。報告の指摘は、まさにそのことをさしている。
私には産経新聞が原発に関して「従属なき選択」はあり得ないのだと断言しているように思えた。それは推進のみならず、「減」においても、「脱」においても日本の原発戦略はアメリカの許諾が必要だということである。何故か?アメリカの核戦略と日本の原発戦略は言ってみればクルマの両輪なのだ。核兵器と核燃料サイクルを頂点とした原発技術はコインの裏と表なのである。ただし、日本は江藤淳の言葉を借りて言うならば自由なパートナーではなく、強制されたパートナーなのである。日本がアメリカの核の傘によって平和を維持している以上、日本の原発戦略にアメリカの強制はつきまとわざるを得ないのである。
ある意味で日本はエネルギー安全保障において国家としての主権を制限されている(属米)とも言えよう。福島第一原発の過酷事故を経験しても電力会社が原発維持はおろか、原発推進に自信満々なのも、原発戦略におけるアメリカの盾を承知しているからなのである。日本にとってアメリカに押しつけられたという点で出自に歪みを持つ日本国憲法を改正したり、廃棄することよりも、原発戦略においてアメリカの強制を払拭することのほうが難しいはずである。何しろ日本の政治勢力において属米でない改憲派は殆ど存在しないのである(アメリカが日本から「右」の思想の可能性を禁じた結果である)。
アメリカの強制を払拭できないのは何も原発戦略ばかりではあるまい。アメリカに反抗しない限り、日本は国家としての自由を認められているのである。それが敗戦の結果なのである。日米同盟と胸を張ったところで内田樹が指摘しているように日米同盟の本質は「アメリカが日本に『もうアメリカを相手に戦争をさせない』ために与えたもの」だ。より厳密に言うのであれば「与えたもの」というよりも「強制されたもの」なのである。日米同盟を基軸としている限り、はっきり言うが日本は、保守系の政権であろうと、リベラル系の政権であろうと、アメリカのお墨付きがなければ、そう簡単に原発から自由になれないのである。
日本の外交や国防がそうであるように日本のエネルギー安全保障もまたアメリカの国益が最優先されるということだ。アメリカにNoはあっても、日本にはYesしかあり得ない不平等な関係を維持していくということが日米同盟を基軸とするということのなのである。そうした属米の構造が見え難くしていたのは、外交でも国防でも、そうした属米の構造にどこまでも従順であることが同時に日本の国益にも、国民益にもかなっていたからである。原発にしても福島第一原発の過酷事故が起こるまでは日本の国益にも、国民益にもかなっていると信じられていたればこそ、そこにアメリカの影を見ずに済んでいたのである。