ベトナムに原発輸出を小さな記事としてしか扱わない「脱原発」系新聞の想像力

「LifelongLearningWeb」(@learning_web)は「主に1分〜1時間前に投稿された原発、御用学者、捏造・不正論文、放射性物質、抗議デモ、教育問題に関係するブログ記事を独自のプログラムにより抽出して紹介するBotです」ということだが、光栄にも私の昨日のエントリを6回にもわたってツイートしてくれている。昨日の午後6時、午後7時、午後10時、午後11時、今日の午前6時、午前7時という具合にであるが、果たして私のエントリは「独自のプログラム」によれば、どこに分類されたのだろうか。原発原子力をテーマにしてブログを書くに際して、私として心がけていることがあるとすれば「原子力ムラ」であるとか、「御用学者」といった流行の言葉を使って何も言っていないにもかかわらず、何か言ったような気分になってしまう思考停止に陥ることだけは避けようということである。それにしても3.11以後、民衆の未来に一片の責任すら持ち合わせていない類の言説の何と多いことよ。私が1月からブログを再開したのは、そうした情況に対する、ささやかな異議申し立てでもある。
私には未だに『北帰行』の作者として記憶に残りつづけている外岡秀俊は『震災と原発 国家の過ち』や『3.11複合被災』のなかで「脱原発」や「脱原発依存」の主張を次のように四つに分類している。
①「原発は完成されていない技術体系であり、生態系と共棲できない」とする「反原発」の立場。
②事故が起きた場合の被害の甚大性、広域性、永続性を考えれば巨大地震津波多発地帯の日本に原発を置くべきではないと、日本固有の理由から「脱原発」を主張する「一国脱原発」の立場。
③事故があった場合のコストや最終処理、原発立地への交付金などを考えれば、原子力は必ずしも安いエネルギーとは言えないのだから、産業としても今後は可能性のある「再生可能エネルギー」にシフトすべきだとする経済重視で、そのモデルをヨーロッパに求めるという意味では「後追い型」の「脱原発」の立場。
福島第一原発の過酷事故を二度と招かないように「防災の一定水準をクリアするまで、現行の危険原発は停止し、運転は見合わせる」という「その場しのぎ型」の「脱原発依存」の立場である。
3.11以後、朝日新聞毎日新聞東京新聞といった新聞はそれまでのイエスバットの原発推進から「脱原発(依存)」の社論へとあっさり転向してしまったようだが、今日4月22日付の各紙の紙面を見ていると、それは「一国脱原発」であることにおいて共通しているように思われる。大飯原発の再稼動は拙速だが、原発の輸出は拙速ではないという「一国脱原発」である。
現在、日本・メコン地域諸国首脳会議が開かれているが、東京新聞は次のような小さな匿名記事を二面に掲載している。

野田佳彦首相は二十一日、ベトナムグエン・タン・ズン首相と都内の迎賓館で会談し、ベトナムでの原発建設計画に対する日本の協力推進を重ねて確認した。両政府は二〇一〇年十月、ベトナムの原子炉二基の建設を日本側が受注することで合意。昨年十月の首脳会談でも協力を確認している。

毎日新聞も同じく二面で金子淳が次のように書いている。

野田佳彦首相は21日、東京・元赤坂の迎賓館でベトナムグエン・タン・ズン首相と会談し、原子力発電所建設やレアアース(希土類)開発で協力を進めていくことを確認した。
ズン首相は首脳会談に先立ち、東京都内の日本記者クラブで会見し、すでに決定している日本からの原発導入について「(福島第1原子力発電所の)事故を教訓にして、原発の技術を新しい発展段階に持ち上げると信じている」と期待を表明した。

朝日新聞は藤谷健が七面の国際面で書いている。

来日中のベトナムグエン・タン・ズン首相は21日、都内の日本記者クラブで記者会見し、日本が輸出を予定する原子力発電所の建設について、「ベトナムは日本の技術を信頼している。(福島の)原発事故を経験したことで、より高度で安全な技術とすることができるだろう」と述べ、建設方針に変更がないことを強調した。
また原発をめぐる情報が地元住民らに開示されていないとの指摘について、ズン氏は「住民の同意を得られるよう、政府は必要な情報を国民にきちんと伝えている」と反論した。

藤谷はツイッター記者でもあるから、この件について何か別のことをツイートしているのかと思って、藤谷のTLも見てみたが「今日、ベトナム首相が都内の日本記者クラブで会見しました。朝日新聞記者の質問への回答です。原発建設「日本の技術信頼」 ベトナム首相、計画続行 」とささやいているだけであった。
わが国の大飯原発の再稼動問題では政府に対して拙速であると批判した東京新聞毎日新聞朝日新聞だが、原発の輸出に関しては、拙速とは判断していない様子がこれらの記事を読めばわかるだろう。
私は別に「脱原発」や「反原発」という「倫理的反動」を孕んだイデオロギーにかぶれている輩ではないが、わが国の経済産業相という要職にある人物が原発依存度を40年後にはゼロにすると言い放っている一方で、原発の輸出にかくも熱心であるということは、いったいどう考えるべきなのだろうか。原発に関して国内と国外ではダブルスタンダードが存在するりだろうか。
また、この経済産業相大飯原発の再稼動に向けて動き出していたが、これに対して拙速であると批判した「脱原発」に転向したとおぼしき新聞は、大飯原発に安全性の問題があっても、日本が輸出する原発には安全性の点で問題がないと判断しているのだろうか。
外岡の議論を踏まえて、これらの新聞を読むならば、日本の原発技術は福島第一原発の過酷事故を総括したうえで外国に輸出して良いほど信頼を置けるものにいつの間にかなってしまっていたということなのだろう。
朝日新聞は触れてはいなかったが、東京新聞毎日新聞はトルコへの原発輸出に関して日本が一時は優先権を得ていたが、福島第一原発の過酷事故もあり、韓国、中国と競合せざるを得なくなったところにカナダまで参入してきたという記事も二面に掲載していた。飯岡原発の再稼動は駄目でも、トルコへの原発輸出は何とか成功させたいとお考えか?
政治家も新聞もあまりに支離滅裂なのではないだろうか。消費増税でもそうだが、手順や手続きを踏まえることが民主主義の第一歩であるということを無視して平気でいられるのだ。これでは「虚妄の民主主義」以下の「似非民主主義」ではないのか。
人去りし野霧を牛の疾駆せり
無主物を凍てし山河に撒き散らす
戻られぬ地の片陰に笹子鳴く
福島第一原発の過酷事故以後の日本の風景をこれほど的確に、また切実に捉えた言葉を俳句に限らず私は他に知らない。しかし、作者の大道寺将司は死刑囚であり、実際の風景を見ることはかなわない立場にある。獄中から幻視した想像力の産物である。いとも簡単に「脱原発」に転向した新聞ジャーナリズムが、どこかに置き去りにしてしまった想像力である。私はその想像力に敬服しつつ、熱病のような「脱原発」の類を一切拒みたいと思う。「似非」に流されたくはないのである。大道寺将司は東アジア反日武装戦線「狼」として三菱重工爆破を含め三件の連続企業爆破事件を起こし、1987年に死刑が確定した死刑囚である。