朝日新聞主筆・若宮啓文の座標軸「日本政府は大人の対応を 石原都知事の挑発」は大平正芳を忘れてしまっている!!

4月23日付朝日新聞二面の主筆若宮啓文による「座標軸」は「日本政府は大人の対応を 石原都知事の挑発」というタイトルのもと尖閣問題を取り上げている。若宮も東京都ではなく国が尖閣諸島を買うのであれば認める立場のようである。もちろん「しかし、その場合は領土への強い国家意思を示すというより、無用の混乱を避けるためだと中国側に分からせなければいけない」という若宮のみならず新聞が得意とするイエスバットの論法である。もし若宮がリベラルの立場からものを言うのであれば今一歩踏み込んで発言すべきなのだが、それができないのが最近の朝日新聞なのだろう。
むしろ、私が気になったのは若宮が冒頭で披瀝した次のような歴史認識の部分である。そこで若宮は重要な歴史を欠落させてしまっている。

1972年9月、北京を訪れた田中角栄首相は周恩来首相との相次ぐ会談で懸案をほぼ片づけたあと、中国が領有を主張し始めていた尖閣諸島に水を向けた。周氏は「いま、これを話すのはよくない」。6年後に来日する訒小平副首相の「棚上げ」発言に通じる先送りだった。

田中角栄周恩来の会談の件は、若宮の記す通りだが、訒小平の「棚上げ」に前後して尖閣問題について日中間で緊張が走ったことを若宮は知っているにもかかわらず、敢えて書かずに田中の日中国交正常化に猛反発した自民党の反共・親台湾派が田中政権を突き上げ、そこから右派の若手集団「青嵐会」が生まれ、石原慎太郎がその幹事長であったと若宮は書いている。私などはこういう書き方は尖閣問題を石原問題に歴史的に矮小化しているとしか思えない。
1972年の田中訪中ののち、日中平和友好条約が北京で調印されるのは1978年8月12日のこと。当時の首相は若宮の言い方をならえば、もともとは反共・親台湾派でならした福田赳夫であった。実は、その年の4月に約100隻の中国漁船が領海侵犯し、領海内不法操業を繰り返した。そうした事件があったにもかかわらず、日中平和友好条約が調印され、若宮が言うように今年で40周年を迎える。1978年10月23日には訒小平が来日し、日中平和友好条約を批准する。この来日の折に訒小平は「棚上げ」発言をする。日本記者クラブの記者会見に応じた訒小平は概ね次のように語った。

尖閣列島は、我々は釣魚諸島と言います。だから名前も呼び方も違っております。だから、確かにこの点については、双方に食い違った見方があります。中日国交正常化の際も、双方はこの問題に触れないということを約束しました。今回、中日平和友好条約を交渉した際もやはり同じく、この問題に触れないということで一致しました。中国人の知恵からして、こういう方法しか考え出せません。

この「棚上げ」発言では次のような部分がよく引用される。

我々の世代の人間は知恵が足りません。この問題は話がまとまりません。次の世代は、きっと我々よりは賢くなるでしょう。そのときは必ずや、お互いに皆が受け入れられる良い方法を見つけることができるでしょう。

多くの日本人は朝日新聞の報道などに釣られて、さすが孔子孟子老子の伝統に連なる発言をするものだと、訒小平をすっかり評価してしまった。しかし、ここで訒小平は中国にとっては尖閣ではなく釣魚であるという立場を全く変更していないし、この問題を「棚上げ」することは明らかに中国にとって有利に働くものと判断していたはずだ。なぜなら、日本にとって尖閣諸島に関しては領土問題など存在しないはずなのだが、訒小平は「問題」が存在することを日本に認めさせてしまっているのだ。周恩来の「いま、これを話すのはよくない」という場所から一歩踏み出したのだ。また、訒小平は棚上げに関して、この時点では10年程度しか実は目安にしていないのは、次のような発言からも明らかだ。

両国政府が交渉する際、この問題を避けるということが良いと思います。こういう問題は、一時棚上げにしてもかまわないと思います。10年棚上げにしてもかまいません。

この年の12月に大平正芳政権が誕生する。日本共産党の副委員長であった上田耕一郎が自著『国会議員』ので歴代の首相のなかで最も高く評価しているのは大平正芳だが、大平が福田とは違って親中派であったことは間違いない。ところが、その大平が大胆に動くのだ。1979年5月21日、大平は沖縄開発庁による尖閣列島開発利用基礎調査を名目にして、尖閣諸島魚釣島で5メートル四方の仮ヘリポート造りが始めたのである。5月29日、中国の沈平外務省アジア局長は、ヘリポートを造ってまでの尖閣列島調査について「中日両国間の了解に違反していること明白」と遺憾の意を伴臨時代理大使に表明するなど、中国が強い抗議をしてきたことから、大平は調査団を予定よりも早く引き上げさせる。少なくとも大平は訒小平の「棚上げ」論に同意していないことを行動をもって示したのである。大平の「大人の対応」であったというべきかもしれない。そして、大平は12月に訪中し、訒小平と会談する。
若宮は「座標軸」での文章を「国交正常化に投じられた石原氏のクセ球をどうさばくか、両政府に求められているのは大人の対応である」と書くが若宮は大平正芳が投じた直球の「大人の対応」を理想としているのだろうか。石原慎太郎の「中央政治への屈折した情念」を慮るよりも、若宮が理想とする日本政府が選択すべき「大人の対応」とは何かを語ってもらいたいところだ。「主筆」という偉そうな肩書きを持っているのだから、そのくらいの言論は展開して欲しいものである。