エネルギー政策の意見聴取会では電力会社の人たちに大いに語ってもらおうではないか!

大飯原発の再稼動を拙速に決断したり、原子力基本法を改悪したりする野田佳彦福島第一原発の過酷事故に際して福島の人々を翻弄しつづけた菅直人を私は許せないが、原子力発電に誇りを持って推進して来たひとたちを私は頭から批判する気になれない。むしろ、フクシマ後なればこそ、そういうひとたちの声をじっくりと聞きたいと思っていた。電力会社の社員というだけで、あるいは原発推進の立場にあるというだけで、村八分にする風潮に私は吐き気をおぼえる。「原子力ムラ」といった瞬間に思考停止し、魔女狩りに精を出すだけの「反原発ムラ」に私はスターリニズムの腐臭を嗅がないわけにはいかない。所詮、「原子力ムラ」と「反原発ムラ」はコインの表と裏なのではないか。かつては「原子力ムラ」の正当性を「反原発ムラ」が支え、今は逆転して「反原発ムラ」の正当性を「原子力ムラ」が支えている。ただし、その正当性の内実は相当お寒いレベルである。私に言わせれば「原子力ムラ」も「反原発ムラ」も「広場」を欠いているという意味では同罪なのである。ともに民衆に開かれていない。いや、開かれていないどこけろか、極端に生活の基盤を置いていない大多数の民衆を寄せつけないのだ。福島第一原発の悲劇を二度と繰り返さないためには、こうした構造こそを破壊しなければならないはずである。
将来のエネルギー政策を政府が決めるにあたって、国民の声を聞こうという目的で各地で意見聴取会が開かれている。政府が打ち出したエネルギー政策によると2030年における原発比率は0%、15%、20〜25%という三案である。何故、この三案に絞られたのか、私などからすると新聞の記事を読んでいるとわからない。自民党政権が得意とした足して二で割る手法が念頭にあるのかもしれない。0%は脱原発を2030年には達成するというプランであるし、20〜25%は2030年でもフクシマ以前の方針を堅持するというプランである。その真ん中の15%は原発の40年廃炉を実施し、新たな原発も数基ほどつくるというプランである。当然、25%以上の依存率となるプランがないことに原子力推進派は不満であろう。逆に私のような反原発原理主義者ではない者からすると、5%や10%があっても良いと思うし、原発0%を達成するのを2040年に置くならばどうなるかという案もあって良いとも思う。また即刻0%にするという選択肢がないことに不満な反原発派も存在することだろう。政府が三択しか用意しなかったということ自体、エネルギー政策に対する野田政権の温度の低さを象徴しているのかもしれない。しかし、政府はこの三案だけで良いと判断し、各地で意見聴取会を開きはじめた。
第一回目の聴取会から紛糾した。仙台市での開催であったが、そこで20〜25%案支持を訴えたのが東北電力の現役執行役員や電力会社OBであったり、東北ではなくく離れた首都圏から来た参加者であったこともあって、公聴会は「ヤラセ」ではないのかと紛糾したことが新聞やテレビで報じられた。続けて開催された名古屋での聴取会でも、やはり中部電力の社員が20〜25%案支持の意見を述べて、これまた紛糾した。これが「やらせ」でないことは誰の目にも明らかだろう。もし「やらせ」をするのであれば、20〜25%案支持のスピーカーから電力会社の関係者をはずした上で、切々と原発の必要性を訴えさせたほうが効果的である。そのくらいのことは、この聴取会を仕切っている博報堂が一番理解しているはずである。二回も続けて電力会社の人間を登場させてしまったことに原発推進派ほど苦虫を噛み潰していることだろう。そんなこともわからないほど、多くの人々は原発問題に怒り心頭だということに政府はこの間の無策を反省すべきなのだが、そうした動きは今の野田政権にはないようだ。スピーカーの数も少ないし、参加者が議論を戦わせることもないという構成の聴取会ではスピーカーが電力会社の人間とわかれば「ヤラセだ」と大声でわめき散らす気分になるのも致し方あるまい。
それでも私は電力会社の人間がスピーカーとして登場したことは良かったと思う。この間、新聞やテレビの報道は電力会社で実際に働いている人たちが原発について、どう考えているのかをあまり伝えてこなかった。それだけに彼らが何を考えているのか私には興味があったし、そういう意味で聴取会に現役の社員が堂々と意見を開陳したことの意義はあると私は思っている。
新聞などで報じられているように名古屋市で開かれた聴取会では中部電力の社員が「放射能で亡くなった人はいない」とか「原発のリスクが過大に評価されている」と語ったという。この中部電力の社員の言葉を手がかりに考えてみることは、とても大切なことであると私は思っている。確かに福島第一原発の過酷事故で放射能で亡くなった人はいない。ただし、低線量被曝が人体にどのような影響を与えるのか、これは医学の世界でも見解がわかれているらしい。しかし、放射能そのもので亡くなった人はいなくても、放射能が国土を奪ったのは間違いあるまい。また放射能そのものが原因ではなくても、福島第一原発が爆発し、大量の放射性物質が撒き散らされたことが原因で死んだ人たちがいることを忘れてはなるまい。病院に入院していた高齢者は避難の途上で次々に亡くなった。また、故郷を奪われたことから未来への展望を持てずに自殺してしまった人たちもいる。こうした死は原発の事故さえなければ避けられたのは間違いあるまい。私は原発によって殺されたのだと思っている。そういう意味では確かに原発のリスクは専門的には過大に評価されているのだろうが、福島第一原発事故の悲劇を繰り返さないためにも、原発に関しては過大なリスク評価が必要なはずである。確かに原発トヨタが生産する自動車よりも安全かもしれない。トヨタの自動車は交通事故という形で物凄い数の人殺しに貢献している。それはその通りだが、原発の場合は福島第一原発のような事故を起こしてしまうと、幸いにして今回は免れたが放射能に殺される可能性はあるし、避難する過程で原発に殺されたとしか言いようのない不幸な死もあるし、誰もが指摘していることだが、何よりも私たちは大地を奪われてしまったのである。そこに住む、そこで働くひとびとの日常を奪ってしまったのである。そういう意見について「放射能で亡くなった人はいない」「原発のリスクが過大に評価されている」と語った中部電力の社員はどう思っているのだろうか。それぞれの立場が喋りっ放しにするのではなく、折角の機会なのだから、対話をもっと深めも良いのではないだろうか。聴取会で電力会社の社員に語らせないという愚をおかしてはならないはずである。