大飯原発再稼動に向けて政府が安全基準を決定―新聞の社説はどう論じたのか?

野田佳彦を首相とする政府が大飯原発の再稼動にあたって新たな基準を決めたこともあって多くの新聞が社説に取り上げている。そうしたなかにあって最も私を驚かせたのは読売新聞の社説であった。読売新聞は早くも大飯原発の先を見つめ始めたのだ。4月7日付社説のタイトルは「原発人材確保 『脱原発』からの決別」であった。これによれば福島第一原発の過酷事故以後、「原子力を学ぼう、という学生」が減り、「原子力関連産業への就職も敬遠されている」のは、事故の深刻さもさることながら、「菅前首相が安易に、『脱原発』を標榜し、野田首相も、原発の具体的な活用策をなかなか打ち出そうとしないことが響いている」と断言しきっていることである。この「政治と科学」の認識が、かつての「政治と文学」の認識と瓜二つなのは、やはり読売グループのトップが若かりし頃、その筋のトップであったこととかかわりがあることなのだろうか。そういえば、その筋の政党の引退した委員長にインタビューまでして、関連の出版社で単行本まで纏めたこともあったよな。あだしごとはさておき、私が思うに文部科学省が「大学などが設けた原子力関連の講座を予算面で支援するなど、人材育成の事業を進めている」にもかかわらず、原子力を学ぼうという学生が減っているのは、原発の深刻な事故を眼前にしたからではなく、ましてや民主党政権の迷走の責任ではなく、ただ単に科学として原子力の魅力が失せたからにほかならないのではないだろうか。「kojitakenの日記」(http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/)が触れていたように東京大学には19年も昔から原子力の名のつく学科は存在しないのだ。東大では1993年に原子力工学科からシステム量子工学科と名称を変更しているそうだ。読売のこの社説で肯けるのはエネルギー政策の将来像を明確に描かなければならないという主張である。政治がこの将来像を描いて民衆に提示しないかぎり、わが国に存在する54機の原子力発電所のすべてを一度に廃絶できるかのような蒙昧な妄言が罷り通ることらなるのである。
朝日新聞の4月7日付の社説は「原発の再稼働―基準作りで解決しない」。「政府が示してきた再稼働への前のめりな姿勢は改めるべき」であり、政府の打ち出した基準も「国民の納得からはまだ遠い」ものであり、福島第一原発の過酷事故から「1年で得た教訓を可能な限り、取り入れるべき」だとする。加えて「夏の電力需給の見通しを出し、第三者も交えて精査」し、「その結果を待ってから慎重に判断するべきである」とする。しかし、この「べき」論に大飯原発の再稼動に際して政府が耳を貸さないことを承知してか、次のようにも書いている。

原発の立地する状況や古さは炉ごとに違う。基準ができたからといって、電力会社は数十基の原発を次々に再稼働できると考えてはならない。

こう書いておけば、大飯原発が再稼動したとしても自らが主張している「べき論」の有効性が守られることになる。冒頭で「国民の納得からはまだ遠い」と原発に「反」や「脱」を掲げる連中をぬか喜びさせておいて、大飯原発稼動後を既に想定しているということである。朝日新聞が得意とする「政治」を支える「官僚の作文」の典型であろう。
毎日新聞の4月8日付社説「再稼働新基準 全原発に影響する拙速」は政府の決定した基準が決定されるまでに費やされた時間が3日間であったことを捉えて、「国民の安全にかかわる重要な基準を決めるやり方としては、あまりに拙速で場当たり的だ」と切り捨てて、その上で原発再稼動の判断基準は「最初からクリアできる基準をまとめたようにさえ見える」と断罪する。三本柱からなる基準のひとつは「3月末に経済産業省原子力安全・保安院がまとめた30項目の対策の中から短期的に実現できるものを抜き出しただけ」だし、もうひとつの「『福島第1原発を襲ったような地震津波が来ても核燃料が損傷しないことを国が確認している』という基準も、ストレステスト(安全評価)の1次評価で確認できるというのが政府の見方」である以上、新たな基準とは言えないし、三つ目の「免震事務棟の設置など中長期的な対策」にしても、「電力各社が実施計画を示せばいい」というだけのものであると。要するに三つの基準とも「初めから不合格を想定しないような基準」でしかなく、「リスクの高い原発の再稼働を否定すること」のできない基準だと指摘する。更に「炉心が溶融するような過酷事故が起こりうることを念頭におけばフィルター付きのベントや免震棟がないためのリスクも適切に評価すべきだ」とも。是非とも毎日新聞にご教示願いたいのは、拙速でもなく、場当たり的でもない「やり方」とは、原子力規制庁が発足するのを待ってのことなのだろうか、どの程度をもって拙速や場当たり的を克服できると考えているかがひとつ。今ひとつはもって不合格もあり得る基準とは何なのかである。「免震事務棟の設置など中長期的な対策」において「実施計画」のみならず、「工程表」を提出させて判断するということなのだろうか。あるいはベントにフィルターをつけることを義務付けるということなのだろうか、ストレステストの二次評価を待ってのことなのだろうか。具体的にどのような提案であれば良いのか、私にはこの社説を読む限りわからない。実は、そうした具体的な提案を欠如させているのは、毎日新聞が政府程度の判断基準しか持ち合わせていないからなのではないのだろうか。
その点、産経新聞の4月7日付社説(同紙では「主張」と称している)「原発安全基準 迷走を反省し再稼働急げ」は歯切れが良い。しかも毎日新聞の主張と真っ向から対立する。今回、政府が決定した原発を再稼動するに際しての基準は「福島第1原発の事故後から、同県やおおい町が国に対して求めていた判断材料」であり、「福島事故で得た教訓をもとに、経産省原子力安全・保安院が今年2月以来まとめてきた30項目の安全対策などで構成されている」として評価しているのだ。首相の野田佳彦から作成指示があって、3日間で決定したことも、原子力安全・保安院が「約2カ月前から30項目の安全対策を中間報告の形で福井県に示している」という事実を踏まえれば泥縄でも、拙速でもないと主張する。同時に原子力発電の必要性にも言及して次のように言う。

日本の原発は、大飯が動かなければ、5月初旬にゼロとなる極限状況にまで迫っている。代替電力源としてフル稼働してきた火力発電所を休ませる必要もある。さもなければ、投入された老朽火力発電の故障停止続出は目前だ。

この部分は重要な指摘であると思うし、もっと新聞がしっかり報道すべき点である。私たちは原子力発電の過酷事故の恐怖に溺れるあまり、火力発電の安全性という問題をおざなりにしてきた嫌いがあるからである。それこそ代替電力源としてフル稼働してきた火力発電の安全性を点検しなければ、大事故に発展しかねまい。この辺りのバランスをどう考えるのか。それぞれのエネルギーとどう向かい合うのがベストな選択なのか。福島第一原発の過酷事故の検証を踏まえて、エネルギー政策を大綱としてまとめない限り、混乱が拍車をかけて続くことになるのだろう。それだけに短期的には電力不足が避けられれば定期検査中の原子力発電の再稼動は、少なくとも原子力規制庁が発足するまで待てば良いだろう。政府の余裕のなさが逆に不信感を煽っているのだということを再稼動を急ぐのであれば尚のこと踏まえるべきなのである。「急がば回れ」なのである。これは「脱原発」や「脱原発依存」の連中にも妥当することである。
日本経済新聞の「責任持って再稼働を判断し地元に説明を」もまた政府が決めた新たな基準に関しては妥当だとし、こう述べている。

まず電源車の配備など緊急の安全対策が間違いなく実施され、東京電力・福島第1原発を襲ったものと同程度の地震津波に耐えうる備えがあることを再確認する。
さらに防波壁のかさ上げなど完成まで時間がかかる対策については電力会社に実行を確約させ、工程表の提出も求めるという。百パーセントの安全を保証はできないが、打てる手だてを尽くした。

日経が批判するのは、この間の政府の対応である。「この程度の判断基準ならとうの昔に国民に示せた」にもかかわらず、急遽、基準作りを指示したのは「場当たり的」であるし、「ストレステストによる再稼働の判断手続きが始まって半年以上」が経っていたことを踏まえれば「関係閣僚はただテストの結果を待っていただけなのか」と手厳しいが、私もそう思う。「閣内不一致ともとれる発言や説明のぶれも目に余る」と書いているが、本当にその通りだ。特に酷かったのは放射線物質が撒き散らされた福島を訪ねた際に住民は普段着だったにもかかわらず、放射線防護服を着用して現れた、あの男のブレ方である。枝野経産相は国会で大飯原発の再稼動には反対としながら、後で修正した。恐らく、この政治家には信念などないのだろう。ただ「原発恐怖症」に取り憑かれているだけなのではないか。政府が最低限なさなければならないのは、日経が書いているように次のことだろう。

原子力規制庁を早く発足させ、福島第1原発事故の教訓を踏まえた新しい安全基準をきちんと整え、電力会社に徹底させなければならない。大飯3、4号機を含む全原発を対象にしたストレステスト2次評価も早く実施、国民の理解が得られるよう、より総合的で長期的な視点から安全性を再点検するのが望ましい。

もっとも消費増税しか頭にないような野田内閣にこうしたことを期待するのは、そもそも無理なのかもしれない。
読売、産経、日経が是としている原発再稼動の新しい基準に対して「ほとんど通り一遍の電源確保と緊急冷却対策程度」であり、「大けがにばんそうこうをはり付けたぐらいの応急措置」であると切り捨てるのは東京新聞の4月7日付社説「大飯再稼働 即席で国民を守れるか」である。産経新聞とは逆の意味で歯切れの良い社説である。最近、朝日新聞の購読者が次々に東京新聞に乗り換えているというが、それも頷ける。「福島原発事故後の緊急対策の域を出」ておらず、これでは「国民の安全を守れるとは到底思えない」と冒頭から言ってのけるのはアジビラのノリである。まあ、これは私などもこのブログを書くにあたって良く使う手段だけれど(笑)。いずれにしても、東京新聞にしても、いきなり「原発なき社会」を目指してはいないことが次のような一行でわかる。毎日新聞がボカしていた部分でもある。

少なくとも国会事故調の提言が出て独立の規制機関が動きだすまでは、原発の再稼働を判断するべきではない。

原子力規制庁が発足しないままに定期点検中であった原子力発電を再稼動させることは私も順番として間違っていると思う。停電になろうが何となろうが、この「まずは」を実現せず、後回しにすることは、原子力発電が民主主義からどんどん離れていくことを加速させるだけではないのか。それとも政府は「脱原発」や「脱原発依存」どころではなく、「反原発」派を大量生産することを逆に狙っているのだろうか。野田政権は総てにおいて「まずは」を欠いているのである。