大飯原発前「路上」占拠の抗議活動について

ジャーナリストの江川紹子が次のようにツイートしていることが私のタイムラインでは話題になっている。江川のツイートを拾ってみると、こんな感じになるのだろうか。

金曜日に首相官邸前でのデモを行った人たちと、今日、大飯原発前で機動隊員を相手に立ち回りを繰り広げたらしい人たちを、同じ「市民」という言葉でくくってしまうことには、かなりの違和感を覚える。

一般市民に共感されない「活動」は広がりを持たないことを、かつての様々な「活動」が示したし、その一端を見てきたので、つい心配になる。体をバリケードに縛り付ける、幼い子どもを機動隊に対峙させる、などが、市民に共感をされるの?脱原発のムーブメントに尻込みする要因になりはしないですか?

江川の言いたいことはわからないでもない。江川が首相官邸前のデモや大飯原発の抗議行動を貶めているとも思わない。ただ、私は江川と違ってデモや占拠という行動の底にあるのは「感情」であるとは思わない。私の認識は逆なのである。どんな運動でもそうだが、根っこにあるのは「理性」や「知性」だと思う。たとえ半端な「理性」、生半可な「知性」であったとしても根っこにあるのは「感情」ではあるまい。社会意識や政治意識を支えるのは「理性」や「知性」である。私がここで言う「理性」や「知性」を「世界観」と言いかえても良いのかもしれない。
その「世界観」が民衆の日常に根を張る「感情」から遊離し、民衆の生活過程そのものから孤立してしまうという危機感が、その「理性」や「知性」を「情念」に転化してしまうのである。「情念」に転化して「行動」を暴走させてしまうのである。しかし、そのような「行動」が民衆に共感され、共鳴されることは絶対にないのである。
そうした民衆に対して開かれた広場を形成できない(形成しようとも思わない、が正しいかもしれない)「情念」が民衆に対して潔癖性を求めたとき、民衆は彼の「理性」をきっぱりと否認する。誤解を恐れずに言うのであれば、「反原発」や「脱原発」の運動はラジカルになればなるほど、そうした敗北主義を必然化するということにほかならない。その「行動」は仕方なしに原発再稼動を容認している、民衆のなかでもっとも分厚い「感情」の岩盤に敵対することになってしまうのだ。
その人間の個人的な趣味、嗜好の問題として、また自己責任の問題として大飯原発前の路上を占拠することは良いだろう。私は占拠するつもりなど毛頭ないが、そうした趣味、嗜好を認めることに少しもやぶさかではない。ローリングストーンズの『ストリートファイティングマン』のほうがもっと好きな曲であるにしても、横断幕か何かに掲げていた『イマジン』は私も好きな曲である。「Imagine there's no Heaven/It's easy if you try」よりも「Hey! think the time is right for a palace revolution/But where I live the game to play is compromise solution」という歌詞に馴れ親しんできた。
そんな私にとって「人間の鎖」は戯画でしかない。かつて反核運動が盛り上がった際のダイイン(死んだふり、である。死者を冒涜する「死んだふり」だ)と同様に所詮、戯画である。身体を賭しての意思表示であることは尊重したいが、やっていることは日本がかつて戦争でやらかした特攻や玉砕と同じようなものであるとも思った。もし幼い子どもを巻き込んでいるのだとしたら、沖縄の地上戦と変わりあるまい。マルクスの喝破したごとく歴史は繰り返すのである。
もっと肩の力を抜けばよいのに…私がこんなことを言っても、やっている本人たちには通じないということもわかっている。それに私は、大飯原発につながる路上を封鎖した程度で原発の再稼動が中止になるとは思いもしていなかった。そんな甘ちゃんな国家権力など世界中のどこにも存在するはずなかろう。大飯原発は予定通りに再稼動と相成った。朝日新聞曰く

関西電力は1日午後9時、大飯原発3号機(福井県おおい町)を再起動した。昨年3月の東京電力福島第一原発の事故後、定期検査に入った原発が再起動するのは初めて。

何度も書いてきたことだが、日本で明日にでも原発ゼロ社会が実現するなどと考えるのは堪え性のない妄想にしか過ぎない。原発ゼロ社会を実現するにしても、しばらくは原発というエネルギー源に耐えるしかないのである。関西電力原発依存度は50%を超えている。そのくらい原発なしではすまない、しかし、便利な社会を私たちは作り上げてしまったのだ。そういう意味で原発は「原罪」と言えるのかもしれない。
結局、私は私で私の「自由な表現」を模索するしかないということである。例えば私が深夜のサッカーでスペインがイタリアを4-0で下したヨーロッパ選手権について何かを書いたり、言及したりすることもまた「自由な表現」なのである。「反原発」や「脱原発」を声高に叫ぶことや江川紹子のツイートに対して下品な言葉で口汚く罵るリプライを投げつけることだけが「自由な表現」であると錯覚してはならないのである。
むろん、それも「自由な表現」ではある。もっとも自分では「自由な表現」であると過信していても、その手の「自由な表現」はやがて保守政治のリアリズムを前に全面敗北を喫するであろうことに想像力が及ばないぶんだけ「不自由」でもある。全面敗北の後に待ち受けているのは「転向」である。福島第一原発の成立史を振り返ってみればわかることだが「反原発」のアクティビストが一転して「原発推進派」に転向するのは珍しいことでもなんでもない。何も原発に限ったことではない。日本の保守はそのようにして命脈を保ってきたともいえるだろう。