民主党の分裂と小沢一郎について

小沢一郎グループが民主党を離党した。衆議院議員が38人、参議院議員が12人の計50人が離党することになった。最初52人と発表されたが辻恵階猛の二人が脱落したため50人となった。もともと消費増税法案で造反した衆議院議員は反対に投じた57人、棄権・欠席した16人を含め、73人に及んだが、約半分が民主党にとどまることになった。また、もし参議院からの離党者が19人に及ぶと民主党参議院で第一党の座を失うことになるから、民主党としてはホッとしていることだろう。特に民主党参議院議員を束ねる立場にある幹事長の輿石東は胸を撫で下ろしているに違いない。
予想できたこととはいえ、新聞の社説はいつものように小沢一郎に冷たかった。新聞が社説で個人を批判しても構わないと私は思っている。しかし、個人を批判するのであれば、その社説は誰が書いたか民衆の前に明らかにすべきである。テメエの名前を名乗らずに匿名で個人を批判するのは卑怯、卑劣な行為であると新聞でメシを喰っている連中は思わないのだろうか。そうは思わないから匿名で小沢一郎を叩きつづけるのであろう。小沢一郎が偉いのは、そこまで個人攻撃をされても、その新聞社を名誉毀損で訴えることが一切ないところである。最近の新聞社とはえらい違いである。
民主党分裂―公約を鍛え直す契機に」と題された朝日新聞の社説は「野田首相と党執行部は離党届を受理するかたちではなく、除名処分を科してきっぱり決別するのが筋である」ときっぱり書いている。民主党幹事長の輿石東との複数回に及ぶ会談で小沢一郎が「129時間に及ぶ国会審議と、自民、公明両党との修正協議の末、やっと衆院通過にこぎつけた」消費増税関連法案の撤回を要求したことを無理難題というほかはないと切り捨てているのだから、まあ当然の主張である。しかし、無理難題であったとしても、消費増税法案の撤回を求めることは、衆議院の採決において反対票を投じた代議士として当然の責務だろう。衆議院の採決で反対票を投じながらも、消費増税法案の採決を強行した党に残るという選択ほどわかりにくいものはあるまい。そういうことを朝日新聞のお偉いさんは考えたことがないのだろうか。民主主義において「嘘」は唾棄されるべき最大の「悪」である。イギリスの政治学者E・バーカーが指摘しているように「政党は一方の足場を社会に、他方の足場を国家に置いた橋」なのであるとすれば、民主党は社会に置く足場を一方的に放棄し、国家にのみ足場を置くことで社会と国家を結ぶ「橋」としての役割を自ら放棄してしまったのである。小沢一郎が問題視しているのは、この点にほかなるまい。だから消費増税関連法案の撤回を要求しつづけたのである。それを無理難題と貶める朝日新聞政党政治のイロハを知らないようである。
毎日新聞の社説は「民主党分裂 解党的出直しを求める」だが、綱領も掲げられず、マニフェストの理念すら守れなかった民主党には政治が出直すための解党こそを求めるべきなのではないか。毎日のこの社説は「小沢元代表らは『増税の前にすべきことがある』と強調するが、政府や国会議員が身を削る努力は増税と一体で断行すべき課題だ」と書いているが、消費増税を強行してしまった以上、自分の選挙が危うくなるような「身を削る努力」など民自公そろってできるはずもなかろう。違憲状態を修正して、それで終わりに決まっている。また民主党に「『コンクリートから人へ』はもう店じまいなのか」と問うているが、何を今頃という民主党に対する問いかけである。「コンクリートから人へ」の方針を総選挙の洗礼もうけずに店じまい(=撤回)したからこそ税と社会保障の一体改革と言いながら、自民党案を丸呑みして消費増税のみを先行できたのである。社説を書いている論説委員とやらは、眼前で起きていることを色眼鏡なしで先ず見るべきではないのか。
読売新聞の社説「民主党分裂 限界に達した政権の内部矛盾」が書く「今回の党分裂は、理念や政策を一致させないまま、非自民勢力を結集した『選挙互助会』的な政権党の危うさも露呈した」という認識は私も共有できる。理念や政策を一致させないまま非自民勢力を結集してしまったから、民主党にできたのは小選挙区自民党の候補に競り勝って、政権交代を実現するというところまでであったのだ。民主党は二大政党制の一翼を担う体をなしていないままに政権を掌中に収めてしまった。守るべき理念、政策がバラバラであったから、首相の野田が消費増税一本に傾斜すればするほど、他は何も見えなくなってしまい自民党ですらできなかったことですらできてしまったのである。消費増税をめぐるドサクサに紛れて原子力基本法宇宙航空研究開発機構法を改正してしまったのは、その象徴であろう。民主党政権交代は「静かなる革命」を進めるどころか、「大いなる反動」に次々に加担していったとしか思えない。読売の社説は「民主党内に『親小沢』対『反小沢』という不毛な対立軸」とも書いている。確かに「不毛な対立軸」はあったろう。ただし、これをよく観察してみると、福島第一原発の過酷事故における「戦犯」の一人である菅直人などが抱いている「小沢アレルギー」(政治とカネを合言葉に!)が党内における小沢排除のエンジンとなり、『親小沢』対『反小沢』という不毛な対立軸が生まれたのではなかったのか。
産経新聞の社説「民主党分裂 政策連合進め懸案解決を「小沢政治」は終焉を迎えた」は世論調査の結果を紹介している。「産経新聞社とFNNの合同世論調査では小沢氏による新党への期待は11%にとどまり、『期待しない』が87%に上った」「とくに小沢氏の造反行動について「国民生活を第一に考えた」と思っている人は2割にすぎず、7割以上がそう受け止めていない点に注目したい」と書いているのだが、この数字を見て私は産経と全く逆の評価をしている。小沢一郎に対するメディアのネガティブキャンペーンがあれだけ大がかりに繰り広げられているにもかかわらず、新党への期待が11%もあり、小沢氏の造反行動について「国民生活を第一に考えた」と思っている人が2割もいるという点に注目したいのである。小沢新党に対する期待は、物凄く高いというものではないが、それほど低くはないのである。小選挙区の選挙結果を左右するだけの影響力は持っているということである。
小沢一郎の離党の意味を「民主党崩壊の始まりであり、政権与党としての存在意義の喪失」であるとする東京新聞の社説「民主党分裂 民の声届かぬ歯がゆさ」の次のような指摘は的を射ているように私は思った。

三年前、二〇〇九年夏の衆院選を思い出してみよう。当時、有権者を支配していたのは政権交代への渇望だった。
消えた年金、無駄な公共事業、対米追従、官僚依存。選挙を経ずに一年ごとに首相の職をたらい回しする自民党政治に対する不満は頂点に達していた。
それを変える処方箋が民主党マニフェストであり、実現する手段が民主党への政権交代だった。
選挙で信を得たマニフェストは国民との契約である。書いてあることは命懸けで実行し、書いていないことはやらないのが作法だ。
しかし、大部分の民主党議員はもはやそう思っていないようである。税金の無駄遣いをなくすことや社会保障の抜本改革は官僚らの抵抗に負けて早々に諦め、選挙で敵対した自民、公明両党と組んで消費税増税に血道を上げる。
手段のはずの政権交代が目的となり、官僚主導政治に同化した民主党議員には、自民党との違いを主張する資格も能力もない。

民主党は選挙の審判を仰ぐことなく、国民との契約であるマニフェストを撤回し、自民党化してしまったのである。そして自民党化した民主党は二大政党制を崩壊させようとしているのである。確かに総選挙があったとしても、自民党民主党も同じという政治メニューにおいて政権の選択肢において、さして幅のある結果にはなり難いのかもしれない。しかし、小沢新党によって、国民は野党を失うという悲劇は取り敢えず回避することができたのである。政治が大政翼賛会に堕落する危機を小沢一郎が消費増税関連法案の撤回を求めつづけたことで救ったのである。