茶飲話として

民意を反映するはずの議会が必ずしも民意を反映していないのは衆議院で消費増税関連法案が圧倒的多数で可決されたことからもわかる。何故、こんなことになるのかと言えば、国民主権といっても、主権は議会の議員を誰にするかの選挙に際して一票を投じることに限定されているからである。選挙で一票を投じることでしか主権を行使できないからこそ、選挙で一票を投じることは重要なのだが、そこで満足してはならないのである。
国民主権を前提とするならば、民主主義のゴールは普通選挙にないのである。国民主権を議会の代表を選ぶ一票に矮小化してはならないということである。国民主権が選挙での一票に矮小化されてしまっている結果、民主党は2009年の総選挙に際して掲げたマニフェストをいとも簡単に捨て去り、消費増税を強行することができたのである。しかし、これは少しも不思議なことではない。既にルソーが喝破しているように「自由なのは議員の選挙のときだけにすぎない。議員の選挙が済んでしまえば、彼等はとるにも足らぬ奴隷になってしまう」のである。代議制民主主義は専制政体とそれほど遠く離れて存在しないのである。だとすれば、国民主権を発動できる場と機会をどのようにして拡大していくかが、これからの民主主義の課題であることは間違いあるまい(形骸化しつつある最高裁に対する国民審査のあり方を再考することも含めて、である)。
国民はたった一票に不満を抱くべきなのである。首相公選制や国民投票の導入を真剣に考えるべきだし、議会に対しても積極的に働きかける必要があるはずだ。少なくとも地方自治で可能なことは国政でも可能にすべきなのである。地方自治における首長は直接選挙によって選ぶことができるし、首長や議員に対する解職請求も議会に対する解散請求も可能であるし、憲法95条が定める一つの自治体にのみ適用する特別法の制定に必要な住民投票も可能である。加えて条例制定権を根拠にして政策などの是非を住民投票で問う条例を制定しようとする事例もある。
しかし、国政に目を移してみると、国民投票という直接民主主義のツールは憲法を改正する際にしか使えないのである。国民投票においても国民は主権の行使を限定されているというわけである。今ある総てのルールは過渡期の民主主義のものでしかないのである。眼前の民主主義を絶対化することは、少しも民主的ではないのである。「衆愚」を恐れる者は実は貧乏人の「衆知」を恐れているのである。民主主義とは未来に全面的に開かれている政治制度でなければならないということである。民主主義という政治制度は絶えず生成途上にある「段階」なのである。民主主義が未来に対して少しでも閉じられてしまったら、それは人間の危機にほかならないのだ。