政局与太話―民主党代表選における野田佳彦の再選

首相の野田佳彦が9月21日に民主党の代表に再選された。第1回の投票で全体の7割近くのポイントを獲得したというから、まあ圧勝なのであろう。
具体的に言えば野田818、原口一博154、赤松広隆123、鹿野道彦113、無効など23というポイント数であったという。
これほど大差がついたのは、野田の首相としての力量や人気が評価されたからでもないし、政党政治家として党内の信望が厚いからでもないし、ましてや溢れんばかりの人間的な魅力によってでもあるまい。この代表選に勝利し、首相の座についても、民主党が来年には必ず行われる衆議院総選挙で野党に転落する大敗が確実視されている近未来から逆算して、野田に投票すれば良いやという、国会議員から党員・サポーターに至るまでの「ヤル気」の無さを反映した結果なのである。
そこに民衆の民主党に対する、言ってみれば強い「嫌悪」が反映されていることは間違いあるまい。ある意味、民主党の終わりを告げる代表選だったのである。
有権者民主党に実現を期待したのは、「自民党にはできない政治」にほかならなかった。「コンクリートから人へ」「国民の生活が第一」というスローガンが象徴していたのは官僚主導から政治家主導の政治へという「無血革命」の実現にほかならなかった。静かで、ゆっくりではあっても、明治維新や敗戦による変化と同等の根底からの変化を求めていた。それが遂に口先だけで終わってしまったのである。
一部の新聞の社説が民主党に原点回帰を促していたが、ここまで変質してしまった以上、もはや民主党に原点など存在しまい。首相の野田佳彦が選択した政治は「自民党と同じ政治」であった。野田が首相として総選挙の際に掲げたマニフェストに記載されていなかった消費増税に政治家として生命を賭け、自民党公明党との三党合意によって成立させた段階で、そこに自民党の原点は歪んだ形で存在するかもしれないが、民主党の原点は綺麗さっぱりになくなってしまっていたのである。
野田は「自民党にはできない政治」と決別し、「自民党でもできる政治」に舵を切ったということだ。少なくとも民衆はそう判断した。こうも判断するだろう。「自民党にもできる政治」であれば自民党が担うのが筋なのだと。しかし、だからといって無党派層からすれば自民党に一票を投じるのも面白くない。そうした心情は間違いなく選挙結果に大きな影響を与えるに違いない。
次の総選挙で自民党が第一党に復活するとしても、三分の二に迫る大勝とはならず、民主党以上の厚みをもった新たな政治勢力を成立させるかもしれないのである。日本維新の会に注目が集る所以である。日本維新の会橋下徹が存在感を持っているのは、有権者の既成の政治に対する不満と不信にほかならないし、それだけを根拠とした、言わばブームである。
もちろん、そうしたブームが小泉純一郎自民党を圧勝させたし、民主党による政権交代を実現させた。新しい政治勢力として最近、新聞やテレビにすっかり忘れ去られてしまったというか、意図的に無視されてしまっている小沢一郎民主党を割って結党した「国民の生活が第一」にしても、意外なほど健闘するかもしれない。といって、民主党が大勝した2009年の総選挙で当選したバブル組も多いので、健闘といっても、現状維持にどれだけ迫れるかというレベルである。
もし民主党の原点が存在するとすれば民主党にではなく、「国民の生活が第一」にあることは誰の目にも明らかであろう。そのように理解する無党派層は「国民の生活が第一」を支持することになろう。そもそも民主党の「無血革命」が1年ほどで頓挫してしまったのは、実際は瑕疵などないのに「政治とカネ」の問題で小沢一郎に責任を取れと批判しつづけた新聞、テレビなどの尻馬に沖縄の普天間基地問題で退陣を余儀なくされた鳩山由紀夫の後を継いだ菅直人野田佳彦という二人の首相が乗ってしまって、小沢排除を目論んだからにほかならない。
自民党の政治」を知り尽くしているがゆえに「自民党にはできない政治」のエンジン足り得る小沢一郎を政権の蚊帳の外に置いたことが、民主党をここまで堕落させた最大の原因であることに民主党が未だ気がついていないことが野田佳彦を代表に再選させたというべきである。小沢一郎を活用するプラグマチズムを民主党は持ち合わせていなかったのである。