国会を包囲する「烏合の衆」の可能性

2009年の総選挙が実現した政権交代の意味について、自民党にかわって政権与党の座に就いた民主党は鈍感すぎたのである。民主党に一票を投じた多くの人々は総選挙に際して発表したマニフェストに則って、コンクリートから人へ、官僚主導から政治主導へという「国民の生活を第一」とする政治を実現する「静かな革命」を求めていた。もちろん、マニフェストが100%実現されるとは思ってはいなかった。しかし、鳩山由紀夫内閣が沖縄の普天間基地問題でアメリカを動かすことができずに倒れ、次に成立した菅直人内閣が参議院選挙を前に突然、消費増税を言い出した辺りから政権交代に対する不信が芽生えはじめた。参議院選挙に際しては消費増税を撤回したものの民主党はこの選挙に敗北してしまう。この民主党の敗北によって、大阪維新の会を率いて国政進出を狙う橋下徹(大阪市長)あたりから「決められない政治」と揶揄される情況が国会に生まれる。
そうしたなか2011年3月11日、東日本大震災を迎える。マグニチュード 9.0という日本における観測史上最大の規模の地震に加え、地震によって発生した巨大津波が東北地方から関東地方にかけての太平洋沿岸部を襲い、壊滅的な被害を与えた。しかも、天災だけにとどまらなかった。福島第一原発津波によって全電源を喪失したことで暴走をはじめ、爆発により放射線物質をバラ撒くという人災も引き起こしてしまった。メルトダウンをともなう「レベル7」の過酷事故であったが、この事故を通じて民衆は民主党に裏切られたことを痛感するに至る。首相の菅直人市民運動出身の政治家であったにもかかわらず、福島第一原発にかかわる情報を政府は充分に開示しないまま大量の難民を生み出す。最も象徴的であったのは、文部科学省が管轄していた緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム「SPEEDI」が放射性物質の拡散方向などを予測しながら、当初、そのデータを公表せず、無用の被曝をもたらした。誰が公表しない決定を下したのか、民衆をいわば見殺しにした責任は未だ有耶無耶である。また、事故対応では国会事故調が明らかにしたように菅直人がリーダーシップを発揮するどころか逆に無用の混乱を生んでしまう。これは菅が市民運動の出身であったがゆえのことであったと私は理解している。
もし民主党政権交代により政治主導を確立したというのであれば、「SPEEDI」の問題でもデータの公表を指示できなかった菅直人こそ取るべきなのだが、菅はそうした責任には頬被りし、今や脱原発を訴えている。大東亜戦争に際し、戦中は軍部に協力し、鬼畜米英を叫びながら、敗戦となるとアメリカの言いなりになって民主主義万歳を叫んだ政治家や社会ファシスト知識人の系列に菅直人という男は間違いなく属しているということだろう。
菅内閣の後に成立した野田佳彦内閣は「3.11」を忘れてしまったかのように消費増税に前のめりになる。そうした野田佳彦の姿勢を大新聞は社説で支持したことに象徴されるが、マスメディアは後押しした。結局、消費増税法案を自民党公明党の協力を得て衆議院で可決してしまう。これをきっかけにして民主党自民党化がはじまり、野田は「おとなしいヒトラー」として次々に「決める政治」を自民党公明党を友軍としながら実行に移す。それは「戦前」を準備する「決める政治」にほかならなかった。福島第一原発の過酷事故の総括と検証を済ませないうちに大飯原発の再稼動を決断し、原子力規制委員会設置法を成立させるが、この法律の付則をもって、原子力基本法に「我が国の安全保障に資する」という文言を挿入し、同時に宇宙航空研究開発機構法も改正し、宇宙開発の仕事を「平和の目的」に限るという条件を削除し、集団的自衛権に関する旧来の制度慣行を見直すことにも前向きな姿勢を見せる。武器輸出三原則の緩和も含めて、自民党でさえ実現できなかったようなタカ派的政策を野田佳彦自民党公明党を得ての大政翼賛体制によって次々に決めていったことになる。しかし、2009年総選挙に際して掲げたマニフェストはことごとく反故にされたし、民主党代表選で掲げた「減原発」も何も方針を打ち出さず、言葉だけに終っていた。置き去りにされたのは福島第一原発事故で置き去りにされた民衆に限らなかったということである。民主党による政権交代を支持した総ての民衆が置き去りにされたのである。こうして「静かな革命」は挫折した。
首相官邸前の抗議行動がはじまったのは、3月末のことであった。当初は数百名規模に過ぎなかったという。反原発原発再稼働反対というシングル・イッシューを掲げて毎週金曜日に開催される抗議活動であったが、ツイッターフェイスブックというソーシャルメディアによって次第に参加者が増えていき、マイメディアによって取り上げられずとも、6月に入ると万単位の人々が集まるまでに参加者は脹らんでいったのは、強制をともなう政治や党派性を排除した緩やかな繋がりを志向していたからである。結集軸を反原発原発再稼働反対というシングル・イッシューに絞り(野田政権打倒にまで踏み込まず)、既成の団体、既存の組織を退け、個人の抗議の場として設定されていたのである。ソーシャルメディアの緩やかな繋がりがリアルに可視化されたというべきだろう。「裏切られた民衆」がひとりひとりの意志でそこに集いはじめたからである。その勢いは大飯原発が実際に再稼動されてからも弱まることはなく、昨日、7月8日日曜日夜に行われた「国会大包囲」へと発展する。もはやマスメディアも無視できなくなっていた。東京新聞のみならず、朝日新聞までもがオリンピックの最中であるにもかかわらず一面で取り上げた。
首相官邸前抗議行動や「国会大包囲」は「緩やかな繋がり」であるがゆえに逆に「反原発」でなくても、「裏切られた民衆」の一人として参加できる懐の深さを持ったといえるだろう。組織や団体の旗が林立し、その集団を支えるイデオロギーに身も心も投げ出さなければ、仲間に入れないという反体制運動にありがちな独り善がりの空気がここにはない。
かくいう私も都合三回ほど冷やかしに駆けつけている。私は少なくとも性急な反原発派ではない。だいたい反原発という言い方にすら懐疑的なクチである。まだまだ原発は過渡期のエネルギーとして必要だと考えているが、福島第一原発の過酷事故を総括し、その教訓を生かすことなしに大飯原発の再稼動を決めてしまったことには反対するし、核兵器開発と表裏の関係にある核燃料サイクル事業にも反対であるという立場である。そんな私にしても異和感のない自由な空間であった。例えば原発に関心はないけれど、消費増税を強行した野田政権が許せないからという理由で参加した人間も首相官邸前にはいたかもしれない。もちろん、野次馬も冷やかしも拒否していなかった。政権打倒といった政治的なスローガンを掲げないことが、抗議行動の間口を最大限に広げることになったにちがいない。実態的に動機や資格を一切問わない個人の自由が保障されていたのである。
裏返して言えば「政財官学報」に独占された政治から疎外された「裏切られた民衆」の不満が首相官邸前に集約されることになったのである。首相官邸突入を叫んだ党派バカもいたらしいが、主催者によって押しとどめられたという。仮にこの手の政治党派によって首相官邸突入が煽動され、それが成功したとしても、そのことによってもたらされる流血の事態が実現できる政治的な果実は、60年安保を総括した吉本隆明の「擬制の終焉」を今更持ち出すまでもなく、せいぜいが内閣を退陣に追い込む程度でしかあるまい。
確かに毎週金曜日になると首相官邸前にただ集まり、また昨夜はペンライトを手に国会を取り囲んだ人々は「烏合の衆」にほかなるまい。しかし「烏合」であることによって、「自分自身の目的のために」行動を起こした対等な個人の集まりであった。もちろん単なる「烏合」であるから、間接民主主義との回路を持ち合わせてはいない。持ち合わせていないというよりも、選挙で選んだ自分たちの代表に裏切られたという意味では間接民主主義との回路を断たれた「烏合」である。しかし、そのような「烏合」として暴徒化することなく増殖をつづけ、「烏合」として野田政権に対峙しつづけたことが逆に政治(=間接民主主義)に影響を与え始めているのだ。議会に足場を置く政党や政治家も、ここまで膨れ上がった「烏合の衆」をいささか大袈裟に言えば「非暴力のパリコミューン」として無視できなくなってしまったのである。国会議員はおろか、元首相経験者の鳩山由紀夫も、国民新党の元党首であり、大臣経験者の亀井静香といった保守政治家も首相官邸前の抗議行動に加わるようになったし、山口県の知事選挙では脱原発派の飯田哲也が出馬したこともあって、当選した自民党公明党推薦の山本繁太郎でさえも、上関原発の凍結や脱原発依存を主張せざるを得なくなったのは「烏合の衆」が首相官邸前ばかりではなく、地方にも分厚く存在するからである。有田芳生も次のようにツイートしている。

脱原発。〈自発的に集まる人々がほとんどで、政党側には意思疎通のパイプがない。矛先が既成政党全体に向かう兆しもあり「なめたらえらいことになる」(自民党幹部)〉「毎日」。某政党が官邸前で次期総選挙でどこに投票するかを参加者に聞いた。9割が「小沢新党」にがく然とした。サンプル数は不明。

権力者からすれば文化人の抗議声明であったり、進歩派の署名活動であれば、さして怖さを感じまい。権力者からすれば「烏合の衆」が無名のまま「烏合」として増殖しつづけるのが怖いのである。「烏合の衆」が首相官邸前で増殖をつづけることは政治のあり方を変える契機になり得るはずである。間接民主主義によって「裏切られた民衆」は首相官邸前で無名の「烏合」でありつづけることによって、自分自身を解放するとともに直接民主主義の豊穣な可能性を切り拓きはじめたということだ。議会制民主主義に胡坐をかきつづけてきた職業政治家たちは「烏合の衆」の「烏合の衆知」に驚愕すべきである。そもそも路上に学び、広場で議論するのが民主主義の原風景なのである。