政府事故調が最終報告を発表!4報告書が揃ったけれど

最初に発表があったのは「民間事故調」、次が「東電事故調」で、これに続いて「国会事故調」の発表があり、昨日7月23日に「政府事故調」が発表された。私たちはどの「事故調」を信じれば良いのだろうか。東電の社員からすれば「東電事故調」が正しいいうことになるし、当時の政府関係者からすれば「政府事故調」が正しいということになろう。こんなことでは福島第一原発の過酷事故を検証したことにならないし、その総括を未来に生かすことにもなるまい。7月24日付の東京新聞で名古屋本社論説委員の深田実も次のように書いている。

福島の事故の四つの報告書は、簡略化すれば以下のようになる。国会事故調は人災といい、民間事故調津波の備えへの不十分さ、東電社内調査は想定以上の津波の高さを挙げ、政府事故調津波原発事故の複合災害への視点の欠如を述べた。
しかしながら、どれも原因に肉薄してはいない。
人災にせよ天災対策の不備にせよ、だれが何をどう誤ったのかが解明されねばならない。そのうえで、なぜ誤ったかはやっと見えてくるのだ。

つまり、福島第一原発の事故調査・検証をこれで打ち止めにしてはならないのである。原発推進の論陣を張る読売新聞でも24日付の社説で「事故の全容解明にはまだ時間を要するだろう。今後も調査を継続しながら、危機対策を練り直し、原発の安全性を確保していく必要がある」と書いているくらいである。産経新聞も同じく24日付の社説で「一連の報告書を出発点に、事業者と規制当局、政府の責任を、国会で関係者を証人喚問するなどして厳しく追及してもらいたい」と主張している。
最低でも、この四つの「事故調」を土台にして、それぞれの「事故調」の対立点や矛盾点を洗い出しながら、何が原因で福島第一原発の過酷事故が起き、過酷事故によって何が起き、その事故対応には問題がなかったか、事故が引き起こした様々な事態への対応に問題がなかったかを最終的な「事故調」としてまとめない限り、メルトダウンを引き起こし、レベル7に及んだ原発の過酷事故は検証されたことにならないのではないだろうか。
政府事故調」の委員長をつとめる畑村洋太郎は記者会見で「再現実験をやりたかった」と言ったそうだが、「政府事故調」は100年後の評価に耐えられる検証をめざすのではなかったのか。今からでも再現実験をやるべきなのではないか。どの「事故調」でもそうだが、「再現実験」がないということは、非科学的な報告書が四つ並んだということに過ぎないのではないか。
大前研一が「国会事故調」について、「原子炉分析などの事実に基づかず、政府や東電をはじめとする関係者への聞き取り調査を中心に三面記事的に仕上げた内容だ」と日経BPネットで指摘していたが、「政府事故調」にしても、「原子炉の技術的な分析」(大前研一)は「再現実験」がなされなかった以上、大いに問題あり、である。
裁判でいえば判決にあたる「最終事故調」なくしては、結局、責任は藪の中になってしまう。「最終事故調」の検証作業を抜きにして、次から次に原発を再稼動しようとしているような政府をあなたは信用できますか。私は信用できない。信用できないどころか、リコールに値すると考えている。だから、毎週金曜日には首相官邸前界隈を散歩することにしているのである。私は今すぐにでも原発ゼロ社会が実現できるかのような観念論と妄言を駆使する「反原発」宗教の信者ではないが、過酷事故の責任問題を有耶無耶にしてしまうことには反対である。
思い起こせば2001年の総選挙で民主党が圧勝し、政権交代がなされ、それまで自民党政権ではなかったとされた沖縄密約の存在を白日のもとにさらした。そうした民主党政権の民衆に開かれた姿勢に私は期待を抱いた。民主党政権が隠しごとのない開かれた政治を目指すのだとすれば、これは「静かな革命」と呼んでも良いのではないかと思ったものである。しかし、その期待は「3.11」をもって完膚なきまでに裏切られてしまったのである。一方、民主党野田佳彦が首相になると民主党は消費増税法案を契機に自民党化に舵を切ったのである。そんなために民主党に一票を投じたのではないという有権者首相官邸前の抗議活動の規模を膨らましていった。
これから暑い日が続く。さすがにクーラーなしでは生活できない暑さが続こう。私が社会人になりたての頃は地下鉄には冷房が入っていなかったが今では冷房のない地下鉄など想像するだけで熱中症になりそうである。総武線のほうが冷房が導入されるのが早かったように記憶しているが、それでも総ての車両に冷房が入っているわけではなく、冷房が入っている車両に乗り合わせると思わずニンマリしたものである。冷房がいつもキンキンに効いた電車もまた、恐らく原発が実現したささやかな贅沢である。そうしたささやかな贅沢は民衆の既得権益と言っても良いだろう。今すぐに原発ゼロ社会を実現するには、原発によって獲得できた既得権益を手放す覚悟を民衆に求めなければなるまい。この既得権益を手放さずに脱原発を実現するとなると1年や2年で済む話ではないだろう。しかし、だからといって福島第一原発の過酷事故の調査・検証がバラバラ、原子力規制委員会も発足していないという段階で大飯原発を再稼動させたのは政治の無責任である。昨年のうちに規制機関の新設なくして原発の再稼動はあり得ないという方針を政府が打ち出していたならば、日本の電力会社のなかで最も重い原発中毒に罹っている関西電力にしても、それなりの準備を進めてきたことであろう。電力業界からすれば関西電力による大飯原発の再稼動を契機に各地の原発を次々に再稼動させるつもり狙いがあったに違いない。まさか、これほどまでに再稼動に対する民衆の反発が強いとは想像していなかったはずだ。そのくらい民衆の政府や電力会社に対する不信感が強いということである。そうした不信感は大飯原発の再稼動によって拭われるのではなく、その再稼動によって逆に強まったと考えるべきだろう。