6月29日首相官邸前デモについて

人集。『日本国語大辞典』によれば人簇とも書く。「ひとだかり」と読み、「人が群がり集まること」を言う。
それは物凄い人集であり、人簇であった。昨晩の首相官邸前。私が見学に訪れたのは午後6時だったが、その参加者の多さに圧倒されてしまった。一昨年に飛び入り参加した小沢一郎擁護のデモなどとは比較にならないほど、多くの人々が首相官邸前で開かれた大飯原発再稼動反対のデモに参加しているのだ。
TBSは20万人が集まったという報道をしたらしいが、朝日新聞は主催者によると15〜18万人と書いている。TBSの数字も主催者によるものらしく、主催者自身が参加者数を正確には把握していないのだろう。これに対して警察発表によると1万7千人。さすがに20万人はオーバーな数字なのかもしれないが、恐らく警察は見かけがいかにもデモ隊と見える人々のみをカウントしたのだろう。逆に言えば、昔ながらの風俗を継承するデモ参加者は一割に過ぎなかったということである。
首相官邸前でのデモは今回が初めてではない。3月から毎週金曜日を中心に開催されている。当初は300人程度の小さな規模であったというが、ツイッターフェイスブックというソーシャルメディアを通じて広がっていった。ソーシャルメディアでは「紫陽花革命」という呼称も使われ始めていた。先週6月22日には主催者発表によれば参加者は約4万5千人にまでふくらみ、大飯原発再稼動を2日後に控えた昨29日には私の肉眼からしても先週を遥かに上回る人々が首相官邸前に集まったのである。
実は、この人集の特徴は一見するとデモ参加者と思えない「普通の人々」が数の上では「いかにも系」を圧倒してしまっているところにあった。かくいう私もこのデモに最後までつきあったわけではない。午後7時から飲み会の約束があり、30分ほどしか現地にはいなかった。しかも、私は原発ゼロ社会が明日からでも実現できるかのように饒舌に語る言説を一切信用していない。そういう意味では「ひやかし半分」の見学者の一人に過ぎないのであるが、福島第一原発における過酷事故の総括も済ませずに原発再稼動に前のめりになる野田佳彦を首相とする現在の政府のやり方には私とて反対である。私には野田が過去を「なかったこと」にしようとしか思えないのである。そんな首相の野田に私は怒っている。
確かに関西圏は原発依存度が高く電力消費量が多くなる夏場に向けて大飯原発の再稼動は必要なのだろう。再稼動に反対していた関西圏の首長たちが最後に折れたのも電力不足を危惧してのことだろう。しかし、それでも首長たちは夏場に限定しての再稼動を主張したが、野田佳彦はそうした首長たちの提案を無視した。野田は消費増税でもそうだが、大飯原発の再稼動にしても、民主主義の本質が手順、手続きにあることを顧みず、また民衆の心情を汲み上げることも放棄して大飯原発の再稼動や消費増税を矢継ぎ早に決断するのみならず、消費増税をめぐるゴタゴタに乗じて原子力基本法を改悪までしてみせた。野田佳彦民主党羊頭狗肉の政治に対する「怒り」に関しては、大飯原発再稼動反対で首相官邸前に集まった何万という人々と私もシェアできる。その程度の「共有」を許容するような「緩さ」や「軽さ」もまた、この「人だかり」の特徴だと言える。この「緩さ」や「軽さ」を「広場性」と言っても良いように思う。昨晩の首相官邸前の道路は誰にでも開かれた場であったのである。
だから、機動隊との激突もなければ、暴徒と化した参加者が首相官邸に乱入するというような事件も起こりはしない。とはいえ、このデモによって野田首相に突きつけられた「否」(=ノン)は民衆から自発的に発せられた「大きな声」であるし、「確かな声」であることは間違いあるまい。平成の一揆であると断言して差し支えあるまい。ところが、野田自身はそのことに全く鈍感なのである。首相官邸前に集まった民衆と対話する場を設定するわけでもなく、民衆にに語りかけるわけでもなく、野田は「大きな音」と言ってのけたのである。デモから湧き上がった「国民の声を聞け」という大合唱は遂に野田佳彦の耳に届かなかったのである。スケジュール通り2日後に大飯原発が再稼動されることになるのは間違いあるまい。
その時、この日首相官邸前に響きわたった「大きな声」「確かな声」はどうなるのだろうか。大飯原発が再稼動すれば大飯原発再稼動反対という声は行き場を失う。従来の政治党派を中心にすえた運動では、運動が挫折したことをロクに反省もせずに、次の政治課題が設定され、また挫折しという繰り返しであった。その繰り返しに消耗したならば党派からも、運動からも離脱していった。そして、政治党派は民衆から遊離し、孤立すると。その点において新左翼日本共産党もさして変わりはなかった。しかし、今回、首相官邸前で繰り広げられているデモが党派デモにつきものであった敗北主義のコースを辿るとは私には思えない。昨晩の人集にその手の敗北主義につきものの「重さ」や「陰湿さ」は全く感じられなかった。特定の社会意識、政治意識に回収されない多様性があれだけの人々を首相官邸前に集めたのだ。民衆はソーシャル・メディアを介して自己意識を社会化しつつあると、そう私は理解したい。
もちろん、一部はそうなるのであろうが、この夜、首相官邸前に集まった大半の人々の「緩さ」や「軽さ」は来るべき総選挙における投票行動で明確な意思表示をすることで自身の「怒り」を解放することになるのではないだろうか。それは野田佳彦の属する民主党に一票を投じないという形の意思表示になるに違いない。世論調査では支持政党なしと解答する無党派層が動き始めたのである。衆議院解散総選挙ともなれば、民主党による政権交代を実現させた無党派層民主党を政権から引き摺り下ろすはずだ。
つまり民主党に投票しないということでは一致するが、その一票の行き先はバラバラであろう。その一票は国政に進出する大阪維新の会かもしれないし、小沢新党や日本共産党であるかもしれないし、ともかく民主党ではダメだという一点で、これまで原発を推進して来た自民党に投票するという可能性すらあり得ると私は思っている。民主党は言っていることは綺麗事でも、やっていることが自民党と同じならば、自民党で良いではないかという選択である。
こうしたひとりひとりの自主的な選択を許容し、排除と純化の論理をともなわない「広場性」において首相官邸前デモは新しいし、もしかすると相当に革命的なのかもしれない。革命的でないことが、むしろ革命的なのだ。