過去について

過去を「なかったこと」にしてはなるまい。
「なかったこと」にして忘れてしまいたい過去ほど記憶に焼き付けなければならないはずだ。
過去を現在につなげるのだ。
過去は現在につなげることによってのみ経験として蓄積される。
過去を生かすのである。過去を未来に生かすのだ。
過去は未来を創造するための財産でなければならない。
そのためには勇気をもって過去と向き合わなければならないだろう。
どんなに「あってはならないこと」であったとしても過去から目を背けてはならないのである。過去は「あったこと」なのだ。
「あったこと」として認めることがどんなに辛くとも、現在の時点でできるだけ正確に過去を再構成してみるのだ。その再構成を踏まえて何がそのような過去にしてしまったのか想像力を駆使し、考えて、考えて、考え抜く。
そのようにして過去に責任を負うことによってしか、過去を経験として蓄積することはできないのである。
過去をなかったことにして、過去から逃亡し、過去から自由になることは実は過去に隷属することでしかあるまい。
その隷属が何を意味するかと言えば未来に対する責任放棄である。
小沢一郎の元秘書を取り調べた捜査報告書に虚偽の記述があった問題で最高検は担当検事に対して起訴を見送ったが、最高検は「犯罪」を告発する側の検事の歪んだ「逆立ち」をなかったことにしようとしているとしか私には思えない。
この件ばかりではない。福島第一原発の過酷事故の事故検証にしても、過酷事故を再構成しようという意志に欠けているように私には思えてならないのだ。
野田佳彦民主党政権自民党公明党と野合して消費増税を強行突破しようとしているのも、2009年の総選挙をなかったものにしようとしているのではあるまいか。
過去を「なかったこと」にしてはならないのだ。日本と日本人は歴史から笑われても良いのだろうか?