「東京スカイツリー」異論

昨日、東京スカイツリーが開業した。高さ634メートルは「ムサシ」の語呂合わせ。語呂合わせで電波塔の高さを決めてしまうのは、いかにも日本的なのではないだろうか。東京都と埼玉県のほぼ全域に神奈川県の東部を含めた地域である旧国名の「武蔵」を連想させようという意図である。宮本武蔵の武蔵でもあるし、戦艦武蔵のムサシでもある。戦艦武蔵は1944年(昭和19)年フィリピン沖でアメリカ軍の空爆により撃沈している。竣工は1942年(昭和17)だったから儚い運命の戦艦であった。東京スカイツリーの裏コンセプトが「攘夷」であるとすれば、それはなかなか愉快なことではある。
しかし、この間の新聞やテレビにおける東京スカイツリー報道の過熱ぶりにどうしても馴染むことはできなかった。予想していたこととはいえ、違和感を禁じえなかったのである。私はこのお祭り騒ぎに乗れなかったクチである。昨年、3.11以後に社会を覆った「同調圧力」と同じものが、立場を変えて蘇ったようにしか思えないのだ。へそ曲がり、なのかもしれない。もっとも、へそ曲がりにはへそ曲がりの言い分がある。
最近、というよりも東京電力福島第一原発の過酷事故の後、リベラルな紙面づくりをしているのは、もっばら東京新聞だという評価がある。全国紙も読売新聞を除いて朝日新聞毎日新聞脱原発の論調であることに変わりはないものの、最も脱原発の論調を強く打ち出しているのが東京新聞であり、脱原発のデモや経産省前での抗議活動の様子なども写真入りで一面に紹介しているのは、この新聞だけであろう。今日の一面ではライトアップされた東京スカイツリーを掲載し、「首都一望 風に弱点」という見出しで、昨夕、エレベーターが強風のため停止し、展望回廊が営業中止になったことも伝えてはいるけれど、重心は「首都一望」に置かれたイエスバット記事の典型であった。何しろ東京新聞は2、3、7、26、27、28、29、30面でも東京スカイツリー絡みの記事を書いている。かの「こちら特報部」でさえも東京タワーを取り上げることで、東京スカイツリーをヨイショしているくらいだ。
「but」といっても本当に小さな、か細い「but」にしか過ぎない。それを象徴するのが、それなりに鋭い切り口が売り物の三面に毎日掲載される「核心」であった。「ものづくりの技 凝縮」という見出しのもとに東京スカイツリーがどのように形容されているかといえば、リードではこんな具合である。

…地中からてっぺんまで、隅々に日本の技術の粋が凝縮されている。見上げるだけで多くの人を勇気付ける世界一の自立式電波塔は、日本のものづくり産業の底力を再認識させる。

本文では設計者の「千年くらい、もつと思います」という発言を冒頭に掲げ、見出しにも「設計者『1000年の耐久力』」と打つ。更に「関東大震災級の地震でも無傷に済むとされ、実際、東日本大震災震度5弱に見舞われた東京でも、大きな揺れはほとんどなかった」とこの記事を書いた榎本哲也記者は胸を張る。それどころか東京スカイツリーのデザイン監修を担当した彫刻家にして元東京芸大学長の澄川喜一に「…この塔は日本人の姿そのものです」とまで言わせている。
確かに「日本人の姿そのもの」だと私も思った。しかし、私のニュアンスは澄川とは違う。真逆な意味で「日本人の姿そのもの」だと思うのである。
この記事は東京スカイツリーの「絶対安全神話」を紡ぎだしていると言って良いだろう。記事は最後で強風に対する課題があることを指摘しているものの、恐らく原子力発電を支えて来た「絶対安全神話」と同じ質の言説である。原発の「絶対安全神話」は福島第一の過酷事故で崩壊し、東京新聞脱原発の論調を強烈に打ち出してはいるが、東京スカイツリーの「絶対安全神話」づくりには、いとも簡単に加担してしまう。東京新聞は無自覚にも昭和の戦争でも、また昨年の原発事故でも繰り返した歴史を今回も繰り返そうとしているのだ(他の新聞も似たりよったりである)。この場合、無自覚であることは罪である。
次に引用するのは関西電力のホームページで見つけた文章である。

原子力発電所の主要な設備は、徹底した地質調査や過去に発生した地震の調査などから考えられる最大の地震に耐えられるよう設計しています。また大きな揺れを感知すると原子炉が自動停止するなど、安全性を十分に考慮しています。また世界最大級の大型振動台を使った耐震実験で、安全性は実証されています。
なお、断層関連褶曲にかかる断層見直しについても、過去に実施した海上音波探査の記録に基づき、平成15年に海域活断層の再評価を行っており、原子力発電所の耐震安全性評価に問題がないことを確認しています。

こう書く関西電力は当然のことながら大飯原発の安全性をホームページでアピールしている。曰く―。

■より扱いやすく安全な中央制御室
大飯3・4号機の中央制御盤は、当社のこれまでの運転データを総合して開発された新型システム。人間と機械の調和(マン・マシン・インターフェース)を考えて、CRTによる監視を主体とし、運転モードに応じた機能分割型の制御と、大幅な自動制御方式を採用することで、誤操作防止などの運転操作性の向上を図っています。

更にこうも書く。地震など恐れるに足りぬとばかりに!

■原子炉格納容器
 ・原子炉格納容器は、現実に起こりそうもないような事故を想定して、大きな圧力に耐えるだけの強度および耐震性を考えて設計されています。

東京新聞の榎本記者も負けてはいない。東京スカイツリーについて次のように書いている。こちらも地震対策は大飯原発がそうであるように万全だ。東京スカイツリー液状化・流動化対策は大丈夫なのかというような視点がどこにもないにもかかわらず!

スカイツリーには日本の伝統技術が随所にある。地上では三角形で、上へ行くに従って徐々に円形になり、見る角度によって姿が微妙に変わる塔体を形作る「そり」「むくり」という鉄骨の曲線もそうだ。寺社建築や茶室、日本刀などに使われている日本の伝統的な形だ。
その形を実現させたのが、一つとして同じ形がない約三万七千の鉄骨だ。全国えりすぐりの鉄工所が製造。送信アンテナを設置する「ゲイン塔」の鉄骨は五百�以上の高さでの強風や地震に耐える強度が必要で、高度なプレス技術が要求された。
また、鉄骨を組み立て、溶接する作業も、国内史上例のない高さでの作業で、未知の気候条件と戦いながら進められた。

関西電力がホームページに掲げる文章と東京新聞東京スカイツリーを礼賛する文章との間に私は違いを認めることはできない。
原子力発電所にしても「隅々に日本の技術の粋が凝縮されてい」たことは間違いあるまい。しかし、それでも福島第一原発は過酷事故を引き起こしてしまったのである。東京スカイツリーにしても原発同様に「安全」ということに関しては「絶対」など絶対にないのである。「安全」に細心の注意を払うとしても、あらゆる技術に「危険」はつきものなのである。
にもかかわらず、東京スカイツリーのような世界一の塔を建設する必然性はどこにあったのだろうか。地デシ放送になったから?東京スカイツリーがなくとも地デジ放送に切り替わっているではないか。「安全」を優先して考えれば634mでも、世界一でもある必要などなかったのだ。原子力が電力のベストミックスに欠かせない発電方式であったとしても、日本全国に53基もの原発をつくる必要などなかったのと同じように東京スカイツリーも必要なかったとさえ私は思っている。だいたい「世界一」を未だに誇ろうとするセンス自体が時代遅れのものであろう。
この時代遅れのセンスを辿ってゆくならば日本人の島国根性に逢着するやもしれぬ。その点において東京スカイツリーは「日本人の姿そのもの」である。
福沢諭吉が『文明論之概略』のなかで「虚威」という言葉を使っていたことを私は思い出す。東京スカイツリーは日本の現在を象徴する「虚威」なのである。日本そのものが、あるいは現在そのものが「虚威」であり、そうした姿を反映して天空に聳え立つ塔が東京スカイツリーなのである。
しかし、そうした「本質」は634mという世界一の「見かけ」に隠されてしまって、私たちの肉眼では見えない。またしても「見かけ」を「実威」と錯覚してしまっているのである。福沢にならって言えば「信」の世界に「偽詐」は多く、「疑」の世界に「真理」は多いのである。日本及び日本人に現在最も求められているのは東京スカイツリーという「虚威」ではなく、精神的な自立ではないのか。