何でもそうだが、絶対などありはしない。絶対などあり得ようはずもない。それは過信を戒める言葉である。絶対がないからこそ少しでも絶対に近づくために努力もするし、もしものときに備えることも厭わないのである。
絶対が許されるのは神学においてだけであろう。そういう意味では原子力発電の絶対安全神話は信仰と同じようなものである。私たちは宗教はアヘンであるということを忘れてゲンパツ教を信じてしまったのである。日本の技術力をもってすれば原子力発電は絶対に安全だから、事故など起こるはずもない。事故など起こるはずもないのだから、事故に備える必要もない。それは過信でしかないにもかかわらず、信仰と取り違えてしまったのである。
絶対安全神話が過信の水準にとどまっていたのであれば、絶対などありはしないという科学の立場から過酷事故さえ前提とした事故対策がとられていたのではないか。過信の段階において原子力発電は科学の範疇にあった。しかし、原子力発電が宗教にまで祭り上げられ、絶対安全神話が信仰まで高められたとき、信仰という極端は事故の可能性に言及する科学でさえ異端として排斥してしまった。実はゲンパツ教もオウム真理教と似たりよったりなのである。マンガ喫茶で捕まったオウム真理教の元幹部である高橋克也がマンガ喫茶で逮捕された際に未だに教祖麻原彰晃の写真を持っていたことを私たちは決して笑えまい。誤解を恐れずに言うならば原子力発電の絶対安全神話を信仰した私たちは内なるオウム真理教と向き合うべきなのだ。
確かに、こうしたゲンパツ教を支えた絶対安全神話の信仰は福島第一原発の過酷事故によって崩壊する。しかし、信仰は死にはしなかった。絶対安全神話の超越的な信仰は反原発という形に転移してしまったのである。これほど原子力発電に依存しながら、というよりも原子力発電に依存した経済や生活を顧みることなしに明日からでも原発ゼロ社会が実現するかのような信仰が生まれてしまったのである。
この狭い国土に原発が五十数基も存在するという事態は絶対安全神話を信仰することなしにはあり得なかったろう。同じように、いきなり原発がゼロになる社会を幻想することは信仰を前提にしない限りはあり得まい。そのような信仰に大量の油を注いだのが大飯原発の再稼動を決断した政治であった。その結果、反原発の信仰は更なる広がりを見せることになるだろう。野田佳彦首相の責任は重い。
それはそうだろう。過酷事故を引き起こすことになった原因も究明せず、よってフクシマ後のエネルギー政策もまとめる以前に、また原子力発電を運営する電力会社に言いなりの原子力安全保安院を解体して、新たに規制機関を立ち上げる以前に首相の野田は原発の再稼動に舵を切ってしまうのである。それ以前に福島第一原発の事故は未だに続いているにもかかわらず、冷温停止状態をもってして事故が収束したかのように宣言したのも野田首相であった。その一方で、もし福島第一原発を巨大地震が襲ったならば、どういう対策を講じるかは何ひとつ述べようともしない政治である。野田は昨秋の民主党代表選で「減原発」と主張したが、今の野田からは「減原発」の未来すら見えて来ない。野田は大飯原発を再稼動させるにあたって「実質的に安全は確保されているものの、政府の安全判断の基準は暫定的なものであり、新たな体制が発足した時点で安全規制を見直していくこととなります」と発言したが、私にはこの日本語が未だに理解できないでいる。実質的に安全を確保しながら、その安全判断は暫定的だとは、いったいどういうことなのだろうか。
関西電力大飯原発(福井県おおい町)の再稼働に反対する大規模な抗議行動が6日夜、首相官邸前で行われた。参加者は主催者発表で約15万人(警視庁調べで約2万1千人)。毎週金曜日に行われており、この日も、インターネットでの呼びかけなどに応じた市民らが「脱原発」などと書かれたプラカードを手に集まった。 7月7日付朝日新聞
毎週金曜日に首相官邸前を埋め尽くす民衆は大飯原発が再稼動してもなお減らなかったという現実を政治はいったいどのように考えているのだろうか。明日にでも原発ゼロ社会が実現するかのような信仰に取り憑かれた反原発イデオロギーとは相容れない、この私のような人間でさえも二週間にわたって首相官邸前に足を運んでしまうという現実が何を意味するかについて野田佳彦という国のトップはあまりにも鈍感である。当面原発は必要だと考える人々にとっても、大飯原発のなし崩し的な再稼動には腹を立てているのだ。民衆はデモクラシーに飢えているのである。首相官邸前ではデモクラシーのデモが公然と行われているのである。
この男は政治に対して鈍感であるというよりも、人間に対して鈍感なのではないだろうか。人間に対して鈍感であることによって野田佳彦は一国の宰相として失格である。