いじめ考―学校に引き出される必要なんてない!

「いじめ」にかかわる報道を読んだり、見たり、聞いたりしていると、私はどうしても沈鬱な気分になってしまう。他人事ではないのだ。それは自分の過去に後ろめたさがあるからである。自分自身の傷が、それも傷が二重にうずきはじめるのだ。私は今から40年以上も前に自分自身が当事者となった二つの「いじめ」経験を告白しなければなるまい。
私もまた「いじめ」に加担した経験がある。あれは中学1年生の頃であったが、わたしは東京から転校して来た同級生をいじめた経験を持つ。「悪気」はなかった。私からすれば、ただからかっただけに過ぎない。私は彼をいじめたという意識すらないまま大人になった。いじめられた側からすれば心に消せない傷が残ったことは間違いない。だから、私にいじめられた同級生は中学校を卒業してから四半世紀近くが経って開かれた同窓会で、私を告発したのだろう。「あの時は死のうとも思っていたんだぞ」と彼は微笑みながら言った。彼は私がどういじめたのかをウィスキーをちびりちびりと飲みながら私に具体的に語った。彼は未だに忘れてはいないのだ。一方、私はいじめたという事実さえ忘れてしまっていたのである。私は言葉を失っていた。その夜「すまなかった」としか私は彼に言えなかった。いじめられた側の痛みはいじめられた本人にしかわからないにのだということを私は痛いほど思い知り、いじめたことすら忘れてしまっていた自分に嫌悪感を持った。
一方で、私の記憶を辿れば、その逆のケースも経験している。私もまたいじめられた経験を持つ者である。授業の合間の休憩時間に仲間の男子生徒から、とても人気のあった女性の前で私は3人かがりでズボンを脱がされた経験がある。その3人からすれば恐らく悪意はなかったであろう。ふざけただけなのだが、やられた私にとっては今でも記憶に残っているくらい屈辱的なことであった。しかし、私をいじめた側は、私がそうであるように記憶にすら残っていないという可能性もあるのではないだろうか。もちろん、私のような人間ばかりではあるまい。いじめた経験を忘れずにいるということもあるだろう。あるいは、いじめもしなかったし、いじめられもしなかったという人生もあるだろうし、いじめに遭遇しても傍観者に徹した人生もあるだろう。いずれにせよ、子どもに限らずとも、人は他者と関係を切り結んでいるかぎり、きっかけさえあれば、人はいじめるし、いじめられるものなのである。しかし、その矛盾は学校に行くことを強制されている子どもにおいて噴出する。大人のほうが逃げ道が豊富であるということだ。
「いじめ」について語ることは、とても難しいと思う。「いじめ」があった事実を証明することすら難しい。しかし、それでは間違いなく「いじめ」によって自殺に追い込まれた少年が浮かばれまい。その死を社会は決して無駄にしてはならないはずだ。そのためにも学校という場で「いじめ」を根絶することは不可能であるという認識を私たちの社会は共有することからはじめられないものだろうか。
「どの子どもにも、どの学校でも起こり得る」
東京新聞の7月10日付社説「“いじめ”自殺 隠すことが教育なのか」によれば、これは文部科学省が6年前にいじめの問題で取り組みを徹底するよう求める通知を出した際に述べた言葉だが、裏返して言えば学校という場には必ず「いじめ」がともなうのである。「いじめ」に対して学校という制度は決して万能ではないのである。私がかつて同級生をいじめたとき、学校は何も気がつかなかったし、逆に私がいじめられたときも学校は気がつかなかった。私はいじめたときも、いじめられたときも学校に知られたくなかったのである。
教育の場を学校に限らず、もっと広げて考えたらどうだろうか。義務教育を学校に独占させなければよいのである。そのうえで学校をやめるという選択肢を子どもたちに認めてはどうかと私は思う。親や学校、行政は、子どもたちに学校は行かなければならないものと教えるのではなく、「いじめ」に耐えられなくなったならば学校に行かないという選択肢を子どもたちに権利として公然と認めるのである。そうすれば「いじめ」を原因とする痛ましい自殺を少しでも回避することになるのではないだろうか。「いじめ」に耐えるよりも、吉本隆明ではないが、「引きこもれ!」である。吉本は『ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ』で次のように言い切っている。

人間を外に引き出したほうがいい、社交的なほうがいい、こういう考え方は、メディアの発達とともに力を持ってくるんでしょう。インターネット、携帯電話と、コミュニケーション手段が発達していくのが最近の世の趨勢で、これに逆行することはできないんですが、コミュニケーション自体が自己目的化したらそれはちょっと病気です。

学校に通うことを辛く思い、嫌がっている子どもを学校に無理矢理引き出すくらいならば、子どもたちは自宅の自分の部屋に引きこもっていれば良い。私はそう思う。教育の義務と言うが、この本来的な意味は、保護者が子どもたちの教育を受ける権利を奪ってはならないということである。つまり、私の主張は子どもに教育を受ける権利を放棄させるということではない。家で義務教育を受けられるようにすれば良いのである。子どもたちに学校に行かない自由を保障すべきである。アメリカでは「ホームスクーリング」が権利として認められていることを茂木健一郎の次のようなツイートで知った。

このような事件が起こる度に、「学校に行かない自由」がもっと認められていたら、と思う。アメリカでは、100万人を超える生徒が、「ホームスクリーング」で学んでいる。連邦最高裁によって「権利」として認められており、学業の達成度も、通常の教育を受ける生徒よりも良いとされる。

子どもたちに「逃げ道」を提供することこそ、子どもを「死」から救うのである。学校から逃げることは少しも悪いことではないのである。教師や教育関係者をそのように教育し直せないものか。「いじめ」にあったならば学校では誰も助けてはくれないのである。そのことを大津市の「いじめ」が原因で自殺した中2の少年は命を賭して私たち大人に直訴しているのである。

大津市で昨年10月、いじめを受けていた市立中学2年男子生徒が自殺した問題で、直後に学校が在校生にアンケートを実施した。
回答の中には、この生徒が「自殺の練習をさせられていた」「死んだスズメを口の中に入れろと言われていた」などとあり、いじめがかなり深刻だった可能性を示唆する情報があった。
市教委は11月の記者会見でこれを明らかにせず、調査を打ち切った。生徒の両親が今年、市や関係者を相手取って起こした損害賠償請求訴訟では、「いじめが原因の自殺とは断定できない」と主張してきた。
これらのアンケート回答内容が表面化すると、市教委は回答は伝聞や無記名だったことから事実確認できなかったと説明した。 7月5日付毎日新聞社説「いじめ自殺 事実の解明を丹念に」

別にこの大津市の中学校が異常なのではない。大人たちは、いつだってこのようにして逃げるのである。子どもたちに学校を用意するだけで、退路が全く用意されていないのはあまりに不公平というものだろう。