電子書籍に未来はあるか?

楽天が日本における電子書籍サービスに7月19日から本格的に参入することになった。7月2日に六本木のミッドタウンで記者会見が開かれたが、その規模からしても、また社長兼会長の三木谷浩史が出ずっぱりで説明し、また記者の質問にも一人で答えていたことからも楽天の本気度がうかがえた。周知のように楽天はカナダに本社をおき、世界で900万人が利用している電子書籍サービスを手がけるKobo社を子会社にしており、電子ブックリーダー「kobo Touch」を擁して、日本でも電子書籍サービスを開始するのは時間の問題と言われていたが、やはり上陸が噂されているアマゾンのキンドルよりも一足早くスタートを切ることになった。「kobo Touch」の価格も7980円という「安さ」で参入することからも、シャープの「ガラパゴス」など過去の例と比べれば、遥かに読者からすれば魅力的である。薄さは10ミリだし、重さは185グラムと携行性に優れているし、1000冊以上の書物を収めることができるのも夢のような話であるし、電子ペーパーだから目に疲れない読書も保証されている。しかも、「kobo Touch」のみならず、手持ちのパソコンやスマホタブレットでも読めるというマルチデバイス対応も魅力的である。そうそうソーシャル機能も使える。
しかし、「kobo Touch」によって電子書籍の読者が急激に拡大するとは残念ながら考えられないのだ。確かに「kobo Touch」を歓迎する読者はそれなりに存在もするだろう。例えば、在外邦人であり、洋書を難なく読めるようなインテリ層はアマゾンの「キンドル」ではなく楽天の「kobo Touch」に飛びつくかもしれない。しかし、「kobo Touch」が電子書籍の読者を一気に増やせるとは残念ながら思えないのである。
もっとも、電子書籍に未来はあるかと聞かれれば、「ある」と答えることにしている。私は電子書籍の未来に決して否定的ではないのである。しかし、現状では一般の人々が「kobo Touch」に飛びつくとは思えないのである。
では何故に現状では電子書籍アメリカのように日本では広がらないのか。これも当然のことである。人が紙ではなく電子の書物を選択するにあたって、最も大きな理由は二つあると私は考えている。それは利便性と価格である。
四六判の書物を持ち歩くよりも、価格は四六判よりも安く、かつ四六判よりも嵩張らないことが読者という名のユーザーの立場から電子書籍には求められているはずだ。しかし、こうした要求に電子書籍は現段階では応えられていない。というよりも、そう簡単には応えられないのである。何故なのか。
答えは簡単である。日本には文庫が存在するからだ。よほどのことがない限り、四六判の段階で買わなくても、文庫になってから買えば良いと考えるのが、日本の読者の主流と言って良いだろう。しかも、文庫には「解説」までついている。つまり、文庫の価格、文庫の利便性が電子書籍の普及には壁として立ちはだかっているのである。
四六判が刊行された段階で文庫よりも安い価格で電子書籍を提供するという流れが確立されない限り、読者は電子書籍に魅力を感じないのである。しかし、版元がそうした決断をするとは思えない。出版社からすれば書籍ビジネスにおけるドル箱商品である文庫を電子書籍によって侵食されたくないだろうし、読者からしても文庫という形態の利便性が電子ブックリーダーよりも劣るとは到底判断しないことだろう。いくら電子ブックリーダーに何千冊とストックできるといっても、通勤の電車で読む本は何冊も必要ないのである。一冊で十分なのだ。
確かに日本は電子書籍大国ではある。ケータイによるコミック配信があったからだが、ではコミックは電子ブックリーダーで読むようになるのかというと、雑誌という見開き文化のなかで育まれたコミックはリテラシーということで考えれば、紙のほうが読みやすいのである。他人に読んでいることを知られたくないようなエロティックな作品や紙の商品では入手が不可能な過去の作品であれば電子書籍でも良いだろうが、『ワンピース』の新刊を電子書籍では読もうと多くの読者は考えないことであろう。
それでも電子書籍に未来があるのは間違いない。電子書籍は欧米とは違った形で定着を始めることだろう。電子書籍は言ってみれば日本的な特殊性に着地するのだと思う。海の向こうからやって来た文化が原型を変容させて、この島国に着地し、定着していったように電子書籍もそうなるものと考えられる。
最初に電子書籍に馴染むのは、文庫化されない商品である。学術書もそうだが、売れ筋という意味では新書である。新書が紙の新刊とともに400円を切った価格設定で電子書籍化されたとすれば、読者はコボやキンドルに魅力を感じはじめるはずだ。とはいえ、新書だけではユーザーの広がりは期待できまい。コミックがブックリーダーの形式に合致した形で創造されるとしたならば、読者は紙ではなく、電子を選ぶはずだ。そういう意味で、ネット上で作品を発表する制度が生まれてくるのであれば、電子コミックというジャンルが新たに成立する可能性はあるだろう。
小説はどうだろうか。星新一筒井康隆の短編は電子書籍に向いていると思う。ただし、バラ売りが条件だ。もっと言えば星新一筒井康隆クラスの力量を持った作家が短編や中篇を電子書籍で書下ろしを始めたのであれば、それを買う読者は潜在的に存在するはずである。作家との関係を保つために出版社は中間小説誌を擁し、作家はそこに短編や中篇を発表しているが、これを電子書籍として発売すれば一定の支持を受けるのも間違いあるまい。その場合の価格は100円以下ということになろうか。出版社からすれば電子書籍のブックリーダー自体を小説誌と考えれば良いのである。また、週刊誌や月刊誌の記事を発売から一定の期間をおいて電子書籍として販売することも考えられよう。
しかし、何よりも重要なのは紙の書物では読めないコンテンツを電子書籍で提供することこそが電子書籍を日本的特殊性に着地させるにあたって、最も重要なポイントになるのではないか。ブックレット1冊程度の活字量、あるいは新書の半分程度の活字量でスポーツ新聞や夕刊紙と変わらない価格のオリジナルコンテンツが電子書籍として販売されるのであれば、人はkoboの購入を真剣に考えるはずである。
このように電子書籍ならではのラインナップが成立したときに電子書籍の専用ブックリーダーが商品として注目を浴びるようになり、そのうえで専用ブックリーダーが一定の普及を達成したならば、既存の書物の電子版も商品として動き出すに違いあるまい。もっとも、それは塵も積もれば山となるというストックのビジネスとなるはずだ。絶版がないという電子書籍ならではの特性もこの段階では生かせるはずである。
いずれにしても電子書籍が普及する過程とは、従来の出版文化、出版ビジネスのあり方をゆっくりではあっても、根底的に変えることになることも間違いあるまい。もちろん、紙の書物が絶滅することは絶対にあるまい。しかし、レコード市場ほどではないにしても、その市場規模の縮小は避けられないはずである。少なくとも書店の数は半減するだろうし、取次業界の再編もあるはずである。電子書籍によって「変わること」は出版にとって避けられない未来なのである。