ムーブメントについて―今日の首相官邸前抗議行動を5時間後に控えて

どんなムーブメントでもそうだが、「純化」することによって民衆から孤立してしまう。
こうも言える。できるだけ多くの雑駁物を丁寧に包み込んでいかない限り、ムーブメントは民衆の生活過程に寄り添えないということである。いい加減さや杜撰さまでも包み込むべきなのである。いい加減さや杜撰さこそムーブメントの潤滑油なのだから。
ムーブメントが「純化」することは、そのムーブメントが孕んでいた多様な可能性を排除する。ムーブメントが「純化」することは、そのムーブメントが反権力のベクトルあればあるほど、ムーブメントの権力化を加速する。ムーブメントは本来、否定すべき政治を密輸入しながら権力化を加速させるのだ。
そうして構成されたムーブメントの権力は、権力批判の矛先を収めてしまい、ムーブメントが孕んでいた多様な可能性を先ずイデオロギー的に排除し、やがて、それでは飽き足らず、暴力的に抑圧するまで、ムーブメントをありきたりのありふれた政治として頽廃させてしまうのだ。
ムーブメントの「純化」を求める力学が複数性を孕むこともある。むしろ、「純化」の力学が複数性を伴わないケースのほうが少ないのかもしれない。生成された複数の「純化」の力学がムーブメントの正統性と正当性をめぐって近親憎悪を育み、修復不能なまでに敵対関係を強めることになるだろう。
断るまでもなかろうが、ムーブメントにおいて「純化」する部分は、彼の良心から「純化」を始めたとしても、その部分はムーブメントの前衛でもないし、リーダーでもない。それはムーブメントにとって反動にしか過ぎないのである。良心は常に錯覚するのである。
ムーブメントの歴史とは、そんな馬鹿げた光景の繰り返しであった。もしムーブメントがこれまで繰り返し続けてきた敗北の歴史から自由であろうとすれば、個人の自主性、自立性を最大限に認め、ムーブメントはどんな雑駁物をも(どんな自由をも、と言い換えても良かろう)消化できる、つまりどんな連帯をも恐れない「胃袋」とならなければならないはずである。ムーブメントとは「心臓」ではなく、微分化された自由を飲み込む積分化された「胃袋」の問題なのである。「心臓」など野良犬に喰わせてしまえば良いのである。資格を一切問わないことによってムーブメントは最強の「胃袋」を獲得するのである。
毎週、金曜日の夕方から首相官邸前に繰り出すデモもムーブメントとして「純化」しようという力学が働くならば、ありきたりのありふれた政治として頽廃してしまうことだろう。この場合の「純化」とは、例えば原発の即時廃止と掲げることである。原発の即時廃止を掲げることで、原発の再稼動を認めるにしても、なし崩し的に再稼動させてしまったことに憤りを感じている人々を排除してしまうだろうし、減原発派や脱原発依存派までも排除してしまうことになる。あるいは、首都圏における放射性物質による健康被害の問題や被災地で発生したガレキの広域拡散反対などのハードルを持ち出すことも、ムーブメントを被曝ファシズムへと「純化」させることになろう。
では何故、「純化」の欲望が生まれるのか。それはやがて権力を構成することになるとしても、権力への意志が「純化」の欲望を育むのではない。本来、権力とはかかわりのない良心が先鋭化することで、「純化」の欲望が生まれるのである。良心が先鋭化するとは、良心が現実に追いつめられることである。良心が現実に追いつめられて、世界に対して開ききれなくなることによって「純化」の欲望は誕生するのだ。ムーブメントのレベルが低すぎる。こんなムーブメントではコンサートやイベントと同じではないか。総ては良心という「心臓」に起因する論理であり、心情なのである。
ムーブメントが「純化」し、多様な可能性を排除するに際して、持ち出されるのは決まってmustの論理である。ムーブメントはこうあらねばならないという正義である。mustの論理は必ずムーブメントに徴兵制を持ち出すこともまた歴史を見れば明らかなことである。ムーブメントは正義の旗印のもとmustの論理によって権利から義務へと変質を遂げ、共有から強制へと堕落してゆく。
すなわち、個人を個人たらしめる動機の自由が剥奪されるのである。主体性を問いながら主体性が圧殺されるという倒錯がムーブメントを支配するようになる。もはやムーブメントは権力でしかないほど「純化」されているのである。当初は周縁の自由、周縁の多様性に支えられていたムーブメントが「自由な表現」を手放す瞬間は、いつもこのようにして訪れる。ムーブメントが党派として民衆から孤立する瞬間でもある。民衆が正しいかどうか別にして民衆から孤立したムーブメントはオナニズムでしかなかろう。