「さようなら原発10万人集会」に異和感を抱いた理由―大江健三郎的なる存在について

私は「反原発原理主義者では毛頭ないのだが、毎週金曜日には仕事を終えると、何故か首相官邸前を目指して歩き始めてしまう。それは野田佳彦を首相とする民主党政権原発再稼動のヤリクチや原子力基本法の改悪などに強い異和感を抱いているからである。私は日の丸までもがへんぽんと飜るあの空間が好きである。しかし、私は7月16日に東京・代々木公園で開催された「さようなら原発10万人集会」に行く気には到底なれなかった。野田のヤリクチに異和感があるのと同じくらいの異和感があったからだ。どこに異和感があるのかといえば、この日の呼びかけ人にズラリと有名人が並んでいたからだ。大江健三郎落合恵子澤地久枝鎌田慧内橋克人瀬戸内寂聴坂本龍一と。私は澤地の『妻たちの二・二六事件』や瀬戸内の『美は乱調にあり』の愛読者であるし、大江に関しても『われらの時代』など初期の作品は今でも好きであるし、消費電力が多いのだろうけれどYMOもよく聴いたものである。それだけに異和感を私は持つ。家で小説でも書いていろよ、そのほうが読者は喜ぶはずだぜと私は思うのだ。
もちろん、こうしたお偉いさんたちにデモや集会に出かけるなとは言っていない。出たいデモや集会があるのであれば一兵卒として参加すれば良いだけのことである。昔から文学者やら知識人がその肩書きを利用して署名活動やデモ、集会、声明の呼びかけ人になるというケースは嫌というほどあった。大江などは、その常連であったように私は記憶しているが、果たして大江が呼びかけ人になった署名活動やらデモ、集会、声明、何でも良いのだが、その行動が現実を切り崩すとか、動かしたりしたことがあったろうか。…なかったのではないだろうか。何も変わらず、何も動かず、その呼びかけによって引き起こされた運動は全戦全敗を重ねてきたのではなかったろうか。しかも、全戦全敗の総括や自己批判すら、まともにしたことがないはずである。
今回にしてもそうだったではないか。ノーベル文学賞の威光を背にして、750万以上の署名を携え、のこのこ首相官邸だかに出かけていったものの、「首相の言葉を聞いて下さい」と言われ、その直後に大飯原発の再稼働が決定したのではなかったか。大江のようなお偉いさんは、それでいたく落ち込んだようだが、権力からすれば文化人や知識人など少しも怖くないのだ。真に権力が恐れるのは無名の民衆が自発的に結集した10万人であるはずだ。有名人が呼びかけ人となった10万人を恐れるほど、野田佳彦とて臆病ではあるまい。逆に呼びかけ人などに名前を連ねず、大江なら大江が無名の10万人の隊列に一兵卒としてこっそりと加わり、デモを最後まで黙々と歩き続けることのほうが権力にとっては脅威のはずである。ノーベル文学賞まで受賞している作家はそんなこともわからないのだろうか。文化人や知識人が心の底から民衆に尊敬され、権力から怖れられるのは、自らの肩書を捨てて民衆の風景に溶け込んだときである。
大江は10万人の群集を前にして「ここにいるのは群衆ではなく、一人一人個人の意思を持って集まってきている。野田内閣は次々と原発を動かそうとしている。私たちは政府の目論見を打ち倒さなければならない」といった主旨の発言をしたようだが、その同じ言葉を大江は自分自身に言い聞かせるべきなのではないだろうか。一人一人が個人の意思を持って集った10万人なればこそ、大江のお喋りなど必要としないのである。打ち倒されるべきは大江の偉そうな、しかし死語を並べたてているだけの物言いである。
代々木公園に出かけることのできなかった民衆にとって大江の演説もまた打ち倒されなければなるまい。本来、参加者の10万人のうちから任意に何名かを誰でも良いから壇上に呼んで話をさせれば良いのではあるまいか。10万人の民衆を前にして何かを語ろうとするのは自分がノーベル文学賞まで手にした大作家だからなのだろうか。そういう有名人なればこそ10万人にも及ぶ民衆を指導できるとでも勘違いしているのだろうか。しかし、あっという間に馬脚をあらわし、遂には民衆の自律的な行動の足さえも引っ張ることになる。何でもかんでも緊急課題であるかのように扇動するだけ扇動しておいて、後は知らんぷりどころか、民衆の前に反動として、その本質を露呈することすらあったということである。進歩派や良心派が必ずたどる「いつか来た道」である。
大江のような有名人がしゃしゃり出て来ることはその運動や民主主義を徹底的に退廃させ、腐敗させるだけである。大江に限らず、この集会の呼びかけ人となった有名人連中は直接民主主義の何たるかをまるで理解していないのである。そんなに反原発について喋りたいのであれば、老骨に鞭打ってしゃしゃり出てくるよりも、それぞれの持ち場に帰ってじっくり喋るなり、腰を据えて書くなりすれば良いはずだ。もしも未だに己の啓蒙主義を振りかざしたいのだとしたら、歴史に喜劇役者として名前を残すことになるだけである。60年安保後に書かれた「擬制の終焉」の吉本隆明の口吻を真似て言えば大江はノーベル文学賞を受賞した自分だけが真理の近くにあり、その他は真理の遠くにあると考え、実践的にそれを確かめるために「さようなら原発10万人集会」の呼びかけ人にもなり、当日は一席ぶったのである。そう考えるのが妥当だろう。
大江健三郎は半世紀も前に吉本隆明によって「あまりの情けない政治意識に落胆するほかないのである」(「若い世代のこと」)と喝破されているのである。大江たちの「あまりの情けない政治意識」のアリバイ工作のために動員されるのを私はご免こうむりたい。それにしても大江あたりは調子に乗って「私たちは政府の目論見を打ち倒さなければならない」と民衆を煽っておいて、もし打ち倒すことができなかったら、いったいどういう責任を取るつもりでいるのだろうか。まさか書斎に戻って小説を書いてさえいれば良いのだなどと短絡しているのではあるまいな。それではマニフェストを反故にして消費増税に突き進んだ野田佳彦と同じ穴の狢であるという程度のことは自覚しておいてもらいたいものである。反原発が挫折したら、また何か別の舞台を探せば良い?有名人はいつもそうである。民衆の日々の生活に根を張っていない変態なればこそ、そうなるのである。だから、昔から駄目なのだ。