政治の時間について

政治学者の佐々木毅東京新聞の「時代を読む」に「政治と時間の観念」と題した文章を書いている。ここで佐々木は「選挙の頻繁さと『決められない政治』とのアンバランスは異様」であるとし、政党内で行われる代表・総裁選も含めて選挙に次ぐ選挙という政治スケジュールの度を越した慌しさのもとで重要な政策を実現できると思っているとしたら非常識であると言い切り、次のように述べている。

何の場合にも、時間の管理なくして施策の実現は考えられない。政治の現状は施策の内容もさることながら、そもそも時間がないために諦めなければならない状態にある。時間がなくなっているのは、憲法上の制度のためであるとともに、政治家たちが政争・選挙ばかりしているからである。

政治が選挙や政争にかまけていることで、政治が重要な政策を実現する時間が保障されていないという主張である。しかし、この間、私が見た政治の光景は、むしろ逆だ。首相の野田佳彦は消費増税法案を自民党公明党の協力を得て衆議院で可決してみせるや否や、本来であれば従来の政策の方針転換でもあるだけにそれこそ時間をかけた熟議が必要な法案や法案改正をこれまた自民党公明党の協力を得て次々に決めてしまった。原子力憲法ともいえる原子力基本法の改正などは原子力規制委員会設置法を成立させることで改悪してしまうという離れ業までやってのけてしまったのである。私など野田の何でも決めてしまおうという姿勢に恐怖すら覚えてしまうくらいだ。
そういう意味で私は佐々木の見解には首を縦に振ることはできないが、佐々木が提起した「政治の時間」という問題は看過できないように思う。私に言わせれば政治に流れる時間と他の社会領域で流れる時間がアンバランスが異様なのである。政治に流れる時間は19世紀に成立し、20世紀に常識とされた時間であるが、この時間の流れ方が他の社会領域に流れる時間に比べ、あまりにもゆっくり過ぎるのである。それに比べ経済や生活に流れる時間は経済のグローバリゼーションとデジタル革命によって加速度的に速度を上げてしまっているのである。ギリシアに端を発したEU加盟国の金融破綻は政治の時間が経済の時間に追いつかないことをまざまざと私たちに見せつけた。日本のことしか知らなかった民主党政権ギリシアの実態に蒼ざめたことが、政権交代を実現した2009年マニフェストに記載のない消費増税に踏み切る動機になったことは想像に難くない。言ってみれば経済の時間が政治の時間を脅迫してしまったのである。しかし、経済が王権を行使することは民衆にとっての不幸である。経済の時間にも、政治の時間にも見捨てられた人々を例えばマルチチュードと言って良いのかもしれない。ネグり+ハートが『帝国』において使ったマキャベリスピノザに起源を持つ言葉である。
この間、生活の時間も速度を加速度的に上げてきた。生活が経済によって成立する以上、経済の時間が生活の時間を侵食したという一面もあろうが、生活文化自体がデジタル革命によって、その速度を自立的に上げて来たことも確かである。政治を除いたというよりも、政治を例外として、あらゆる社会領域では21世紀の時間が否応なく既に流れ始めてしまっているのである。政治の時間と生活や経済に流れる時間との速度の違いが何を政治にもたらすのかと言えば、政治と民意のズレである。政治が21世紀の時間を獲得できない限り、このズレは政治において恒常化する。
この意味において「決められない政治」も「次々に決めてしまう政治」も全く同質のものなのである。ともに民意を反映しない。民衆はマルチチュードとして置き去りにされてしまうのである。その第一歩が小泉純一郎内閣が導入した新自由主義が実現した格差社会によって踏み出されたのである。政権交代した民主党もまた旧来の政治の時間に飲み込まれてしまい、「コンクリートから人へ」という方針を遂にはかなぐり捨てる。この間、私たちは選挙において一票を投じることすら許されなかったのである。原発の再稼動においてもそうである。民衆は毎週金曜日に首相官邸前に集るという「一揆」をもって野田政権に対峙している。
政治の核心が民意の反映にあるとするならば、政治に21世紀の時間を流すしかないのである。そのためには、間接民主主義の制度だけでは、もはや足りなくなったのではないだろうか。選挙によらずとも、主権者たる国民の意志によって決めることのできる手立てを考えることは21世紀の政治に問われている重要な課題なのではないだろうか。民主主義は衆愚を恐れてはならないのである。衆愚とは実は権力者が最も恐れる衆知の母胎なのである。21世紀の民主主義は「プラトン以前」を奪還することをそろそろ真剣に考え始めたらどうだろうか。日本の農本主義者(いわゆる右翼である)が好んで使った「協同自治」という言葉を私は蘇らせたい欲望に駆られる。
ちなみに、最も慌しくなく、次々に重要な施策を実現してしまう政治は独裁である。現在の間接民主主義の制度の枠組みで政治の安定を図ろうとするのは、独裁に加担する反動にほかならないはずである。そのことを野田佳彦は「おとなしいヒトラー」として実践してみせたのである。政治に安定を求めるのは独裁に対する郷愁であると私は思っている。私たちは民主主義の道具をまだまだ使い切っていないのである。政治の時間を20世紀段階にいつまでも放置していることは、主権者にとって不幸である。