茶飲話として―民主主義は最高の政治制度であるがまだまだ未完の政治制度である
『民主主義は最高の政治制度である』は橋爪大三郎の著書のタイトルだが、私もまた民主主義は最高の政治制度であるとは思っている。しかし、民主主義が政治制度として完成されているとは思えない。民主主義はまだまだ途上にある政治制度なのではあるまいか。実際、間接民主主義にとって最も重要な意味を持つのは、投票である。投票は主権者たる民衆が唯一行使できる「権力」にほかならないからだ。しかし、日本でいつも問題になるのが一票の格差問題である。一票という「権力」の持つ価値に差別があっては、それを完成された民主主義と呼ぶわけにはいくまい。また、2009年の総選挙で民主党に一票を投じ、政権交代を実現した民衆にとって、マニフェストに記載のなかった消費増税法案の野田政権による強行は、間接民主主義の限界を露呈しているとは言えないか。間接民主主義が直接民主主義を繰り込んでいく制度的な保障がない限り、選挙に勝利した政党のやりたい放題を許してしまうことになる。とても民主主義が完成されているとは言えないはずである。
民主主義が最高の政治制度なればこそ、私たちは民主主義の現状に満足したり、甘えたりしてはならないはずである。民主主義が最高の政治制度なのは、民主主義にはまだまだ進化し、深化する余地が残っているからであろう。確かにアメリカは民主主義の最も進んだ国家のひとつである。しかし、そのアメリカにしても、民主主義を完成させたわけではないだろう。民主主義の到達点は「権力」をどれだけ開くことができているかによって測ることができよう。民や主主義は「権力」を開くための政治制度であり、その究極の理想は、国家を開ききることにあるのである。アメリカの民主主義が国家を開ききっているかといえば、否である。アメリカにしてからがまだまだという段階であろう。国家を開ききるとは、マルクス的に言うのであれば国家を廃絶することである。
政治はたとえ民衆によって選ばれた権力が担おうとも、政治権力は必ず民衆やその外側の世界に対してブラックボックスを抱え込むのである。このブラックボックスを貫く、上から決めてゆく価値観は民主主義と相反するものである。下から決めていく民衆の生活の価値観を政治が取り込めないのもこのためである。吉本隆明の死後に刊行されることになった『第二の敗戦期』で、吉本が次のように述べているのが私には示唆的である。
政治というのは、その中間に、どうしても内密に決められて行われるということがあって、それに従わざるをえなくなっていく、ということがありますから、その「内密に」というところが、一般の生活をしている人にはなかなかわからないのです。
「内密に」という場所を少しずつであっても解体してゆくことが、これからの民主主義に課せられたテーマなのである。