野田佳彦の暴走を前に明日の民主主義を考える

「権力」の暴走を政治が前に進んだのだと評価してしまう朝日新聞の今日の社説には呆れてしまった。

政権交代からまもなく3年。迷走を重ねてきた「決められない政治」が、ようやく一歩、前に進む。率直に歓迎したい。

もっとも私は民主党の議員が小沢一郎をはじめ何人が消費増税に反対票を投じたかに関心がない。消費増税衆議院で可決されたという事実が私たちの目の前にあるだけだ。毎日新聞の社説は「国民そっちのけの主導権争い」だと書いているが、その前に「国民そっちのけの消費増税論議」があったことを忘れてはなるまい。
消費増税に個人として賛成か反対かは別にして、民衆は狐につままれたような気分であることは間違いあるまい。2009年の総選挙において消費増税をマニュフェストに掲げなかった民主党が党内の反対派を押し切り、部分連合ということになるのだろうが、自民党公明党に首相の野田佳彦が擦り寄り、衆議院で法案を可決してしまう。この政治過程から民衆は完全に疎外されてしまったのである。東京新聞の6月27日付社説「政権選択の苦い教訓『消費増税衆院通過」も決して消費増税に反対なわけではない。民主主義のあり方を問題にしているのだ。

本格的な少子高齢化を迎え、社会保障制度を持続可能なものに抜本改革する必要はある。国の借金が一千兆円にも上る財政状況に対する危機感も首相と共有したい。いずれ消費税増税が避けられないだろうことも理解する。
しかし、引き上げることはないと公約した消費税の増税法案を、衆院選を経ずに成立させてしまうことは、民主主義の明白なルール違反にほかならず、納得がいかない。

東京新聞の社説は「『国民会議』で一年以内に結論を得る社会保障改革の全体像が決まるまで消費税増税法案を棚上げするか、衆院を解散して国民に信を問うこと」を提案している。
私など社会保障の全体像を一年以内に決める組織の名称が「国民会議」であることに異和感を抱いてしまう。国会は国権の最高機関であるというが、国会とは別に「国民会議」を設けるというのは、国会の位置づけは「国民会議」ではないらしいことに異和感があるのだ。然らば、国会はどう理解すべきなのか。国会の「会」は「会議」であるのだろうが、「国」が「国民」でないとしたら、何になるのか。それは「国家」なのだろう。国会は「国家会議」ということになる。だから「国民」をその政治過程から疎外して、消費増税を強行できるのだ。野田佳彦は「おとなしいヒトラー」に相応しく「国民」よりも「国家」を上位においているのだろう。
何故、こうしたことが可能かといえば日本の民主主義が間接民主主義であるからだ。いくら国民が主権者であると国家の最高法規で謳っていても、主権者が実際に「主権」を行使できる機会はそれほど多くはない。間接民主主義においては国民の主権行使は誰もが一斉に行使できるという意味では「投票」に矮小化されてしまっているのだ。裁判員制度なども国民の主権行使の一つではあるが、誰もが一斉に行使できるわけではない。そもそも国民の主権行使は「投票」に矮小化されているうえに、その「投票」自体が非常に限定的なのである。行政権力のトップたる内閣総理大臣は「国民」の一票で選ばれるわけではない。私たちが選んだ国会議員によって選ばれるのだ。
すなわち立法権力の構成員を選ぶのは「国民」であっても、行政権力の長を選ぶのは「国民」ではなく、「国民」によって直接選ばれなかった行政権力の長によって、司法権力の最高位にある最高裁判所の裁判官が選ばれるのである。確かに国民は衆議院総選挙の折に国民審査によって、最高裁判所の裁判官を罷免することはできる。しかし、国民は「投票」をもって最高裁判所の裁判官を任命することはできないのである。
民主主義が最高の政治形態であると考えるのは良いだろう。しかし、間接民主主義がただちに最高の政治形態と考えるのは間違いであるし、日本の場合は間接民主主義としても、まだ不完全な形態なのではないだろうか。民主主義をいかに発展させるのか。国民主権羊頭狗肉にとどめるのではなく、現行の民主主義を進化させ、深化させることで国民主権を強化することを私たちはこの21世紀のうちに成し遂げる必要があるのではないだろうか。大阪市長橋下徹などが現在では唱えている首相公選制の導入はそうした一歩になり得るはずだ。
また、諸外国では間接民主主義のみならず、国民投票という形で直接民主主義の方法を取り入れている国々がある。イタリアが脱原発に舵を切ったのも国民投票の結果を踏まえてのことであるし、スイスなどは国民投票がやたらと多い国として知られている。こうした世界の現状を踏まえて、間接民主主義を補完するために直接民主主義を取り入れるべきだという考え方も今回の野田佳彦の消費増税強行によって出てきている。私は国民投票を私たちの主権行使の手段として加えるべきだと思う。
しかし、ここで注意しなければならないのは間接民主主義と直接民主主義の関係である。直接民主主義を間接民主主義の補完的機能であるとする考え方に私は同調できない。それでは逆立しているのである。私は理念的に言うのであれば直接民主主義を補完するのが間接民主主義であるという考え方において国民主権が成立するのだと思う。民主主義の理想形態は直接民主主義なのである。しかしながら、民主主義の現段階は間接民主主義が直接民主主義を代行している段階であり、しかも日本における現行の間接民主主義は間接民主主義としてすら不完全な状態にあると、そう私は認識している。
歴史的に言っても民主主義の起源は古代ギリシア都市国家にまで遡ることができるが、古代ギリシア都市国家アテナイにおいて前5世紀には直接民主主義が確立していたのである。女性、奴隷、在留外人に参政権はなかったにしても、18歳以上のアテナイ市民はアゴラ(広場と考えて良いだろう)で月に4回開かれる民会に誰でも参加でき、20歳をこえていれば誰でも自由に発言でき、投票できたのである。
更にアテナイでは直接民主主義を言ってみれば補完するために間接民主主義も導入している。クレイステネスの改革により、アテナイは500人評議会を発足させ、民会で討議する議案を作成した。500人評議会の委員長は毎日交代し、各委員の任期は35日か36日、再選は二期までとされ、評議会のメンバーは「投票」ではなく、「くじ」によって選んだ。民主主義の総てを間接民主主義に代行させると、「くじ」という方法が完全にとはいえないまでも、民主主義の本質は「人民支配」(デモクラシーの語源である)にあり、語の真の意味で「人民支配」を確立しようとするならば、権力の平等性という観点が欠かせなくなるはずだ。
この観点からすれば「投票」よりも「くじ」のほうが、民主的である。確かにアテナイ直接民主主義衆愚政治を招き寄せ、崩壊することになってしまったが、逆にいえば衆愚政治を克服し、直接民主主義を回復することが民主主義の最終的な課題でもあるのだ。
直接民主主義の思想と実践は何も古代ギリシアで閉じられたわけではない。パリ・コミューンなども、儚く散りはしたものの直接民主主義の実践であったろうし、マルクスが『ゴータ綱領批判』で明らかにしたプロレタリア独裁という考え方も直接民主主義の思想に収まるはずである。マッキャベリやグラムシの思想に直接民主主義の思想を読み込むことも可能である。また、日本においても右翼思想の系列に直接民主主義を志向した論考が残っている。「一君万民」による「協同自治」は直接民主主義の日本的あり方を模索した結果なのである。
現在においても、ハンガリーのインターネット民主党直接民主主義を目指しているというし、スイスでは国民投票のみならず、国民発議も可能にしているという意味では間接民主主義に直接民主主義を相当程度、介在させていることがわかる。もっと身近なことをいえば、都市部の「町会」やマンションの「自治会」などでも直接民主主義が実践されているケースがあるではないか。
いずれにせよ、野田佳彦が消費増税でやってみせてくれた「権力」の暴走を押さえ込めるような直接民主主義を「擬制」の間接民主主義にいかに介入させるかを真剣に考えなければならないほど、日本の政治が頽廃していることは間違いあるまい。