総選挙の結果は自民党の圧勝!私はブログを再開!!
ちょうど解散総選挙期間中、私はブログを更新できない日々を過ごしていた。理由の一つは年末進行であり、今ひとつの理由は入院していたことである。出所は投票日の直前になってしまった。というわけで、今日からブログを再開する。まあ、私がブログを再開したからといって世界の何かが変わるわけでもないが、逆に衆議院選挙で自民党が圧勝しようとも、私の日々の暮らしに、平凡な日常に変化が訪れることはない。むろん、何も生活に変化が生じないのは今回だけではなく、これまでの、どんな選挙でもそうだった。選挙結果がさも私たちの日常に変化をもたらすかのような言辞を弄び、危機感を煽るだけの狼少年的な党派は、永遠に停滞を強いられるだけの話である。
今回の総選挙は、まさしく自民党の圧勝で終った。単独過半数を優に超える294議席を獲得した。そういう意味で次のような私のツイートの予想は外れてしまったことになる。
新聞が世論調査を発表しているが、自民党が単独で過半数を制するにしても、ギリギリのラインではないか。選挙後は自民+公明+民主か、自民+公明+維新のどちらかの選択になるのだろう。民主党は後者を選択されても三党合意を破棄できないし、後者を選択することで参院民主党の分裂を仕掛けられる。 12月5日
民主党が獲得したのは、たったの57議席。選挙前には230議席あったわけだから、四分の一にまで縮小してしまった。こうなると自民党は民主党をパートナーとして迎える必要はまるでなくなる。来年夏の参議院選挙で勝利して参議院の捩れを解消すれば、それで済むと考えるのが妥当だろう。自民+公明の連立政権か、54議席を獲得して躍進した日本維新の会にまで連立のウイングを広げることになるのかである。安倍晋三が本気で憲法改正を考えるのであれば、日本維新の会との連立に踏み切るべきであろう。それにしても民主党の大敗は身から出た錆と言えるだろう。鳩山由紀夫から菅直人を経て野田佳彦に至る過程で民主党政権は変質を重ねていった。民主党が自民党化していったのである。この余りの変質ぶりに有権者は唖然としたのである。そして、民主党が目指すのが自民党政治であれば、自民党が政権を担うべきだと考えたに違いあるまい。私は選挙戦も後半になるに及んで、これは自民党の大勝もあり得るなと考えを改め始めていた。12月15日には次のようにツイートした。
民主党の勘違いは自民党化することが安定政権に繋がると判断したことであろう。特に野田佳彦は民主党の自民党化を加速させた。しかし、民衆にとって自民党化した民主党であれば、本家本元の自民党が政権の座についたほうがわかりやすいのである。自民党が総選挙で圧勝しても少しも不思議ではないのだ。
二大政党というが自民党Aと自民党Bでは二大政党とは言えまい。民主党が政権を獲得しながらも自民党Bに成り下がってしまったことで小選挙区導入による二大政党による政権交代可能な政治は挫折してしまったと考えるべきだろう。自民党の右旋回も民主党の自民党化が引き起こした現象とも言えるはずだ。
加えて言えば、民主党の無責任体質にも人々は嫌気がさし始めていたはずである。2009年総選挙に際して、4年間の消費税の増税はないことを明言しながら、これを反故に増税を強行したことは、2009年総選挙で民主党に勝利をもたらした一票一票を裏切る行為であることに野田はあまりにも鈍感であった。裏切る者は裏切られるのである。私にしてもそうだが、社会保障体制を磐石にするためには消費増税は仕方がないと考えている。しかし、それは政治が身を削った改革を成し遂げた後の話である。自民党政権では自らが築き上げてきた既得権を破壊するのは容易ではないと既得権に縁のない無党派層と呼ばれる多くの有権者は判断し、民主党政権を誕生させたが、それだけに野田内閣が身を削る改革を後回しにして消費増税を強行したことを有権者は許せなかったのである。野田もそうだが、私は菅直人も許せなかった。福島第一原発が引き起こした過酷事故に際して危機管理能力の無さを露呈し、福島の人々に無用な被曝までも強いた政治家が総理大臣を野田佳彦に譲るや否や、いきなり「脱原発」を唱え始めたのである。反吐が出るとは、このことである。私は投票日を迎えることなく、ツイッターにこう記した。
前首相の菅直人は福島第一原発の過酷事故における自らの責任を総括し、自己批判することなしに「脱原発」を唱えている。こうした無責任体質に人々は嫌気がさして、民主党を見捨てさせ、その結果、自民党の政権復帰を許すことになってしまったのだ。
しかし、だからといって私は自民党に一票を投じる気はなかった。私は根っからの自民党嫌いである。
私にとって選挙は衆議院だろうと、参議院だろうと、何だろうと第一義的には自民党が一人でも少なければ良いと思っているし、自民党と同じような民主党や維新も負ければ良いと思っているし、日共も負ければ良いと思っている。だからといって、どこそこに勝って欲しいという強い思いもないのである。
11月27日、フェイスブックには、こう書いた。
選挙左翼ってのは昔から詐欺師なんだよね。額に汗して働く現実感なしに偉そうなことばかり言いやがって、あんたら何様のつもりだよと、オレなんかは思っちまう。
民衆の生活世界から乖離することなしに明日にも世界が滅ぶかのように政治を語ることはできないはずだ。こうもツイートしている。
日共は私たちをどこまで愚弄すれば気が済むのだろうか。マスメディアによる各党の獲得議員予想の報道を止めろと。この党派が政権を獲得したならば一分の隙もない言論弾圧に乗り出すに違いあるまい。しかし、私たちはそれほど馬鹿ではないということを選挙で思い知ることになろうよ。
実際、日本共産党が獲得したのは8議席に過ぎない。ここは自分たちに都合の悪い選挙結果は総てありもしない反共宣伝のせいにしてきた火科学的な政党である。いずれにしても、現段階において、というよりも、いつものことだが積極的に支持したい政党が私にはないのである。駅前に立候補者本人が現れて素晴らしいことを叫んだとて、それはあくまで選挙向けのリップサービスにしかすぎない。当然、安倍晋三あたりの勇ましさも眉唾物であろう。日本を取り戻すと安倍は言うが、この物言いは福島を忘れることなしには成立しまい。これは12月13日のツイート。
選挙のときにだけ民衆の前に現れる議員がどんなに素晴らしいことを叫ぼうとも、それをまともに信用するほど私たちは馬鹿ではない。「素晴らしい」ことが実現することなどあり得まい。その厚顔の裏側に貼りついているのは政治家の民衆に対する無知であり、無恥である。安倍晋三如きに日本は取り戻せまい。
所詮、安倍晋三は「戦後レジーム」の申し子なのである。安倍晋三が勇ましいのは自衛隊を国防軍に変える名称変更の提案と自民党の改憲案に則った憲法改正までであろう。国民に武装権を認める度量はない。銃の野放しに苦悩するアメリカだが、それは憲法が国民の武装権を権利として認めているからである。安倍が豊臣秀吉に奪われた武装権を取り戻そうという人権派でないことは間違いあるまい。そう国家に自衛権があるように民衆にも自衛権がある。人権思想を究極的につきつめていくと、民衆の武装権という問題に逢着するはずだ。クリント・イーストウッド民主主義を我等に!安倍=自民党の主張する自立、自助などたかが知れているのである。
確かに私にも好きな政治家はいる。小沢一郎だ。もっとも、確固たる政治的信念から小沢を支持しているわけではない。それは「好み」の問題にしか過ぎない。12月12日のツイートだ。
オレは小沢一郎が好きだよ。なぜかって?みんなが嫌っているからさ。みんなから好かれるようになったら、オレは卒「小沢」さ。ま、これはオレの好みだけど、無数の好みが世の中には存在するんだよ。
総選挙が公示される直前、滋賀県知事の嘉田由紀子が「卒原発」を掲げる日本未来の党を立ち上げ、ここに小沢一郎の「国民の生活が第一」が合流する。しかし、だからといって私は日本未来の党に全幅の信頼を寄せたわけではない。12月9日、フェイスブックには次のように書いている。
当たり前のことをいくつか確認しておく必要がある。某政党が「卒原発」を掲げているが、今回の選挙で「卒原発」が実現することは絶対にあるまい。何故なら、この政党からの立候補者が全員当選しても、過半数には満たないからだ。仮に全員が当選しても、政権を担うとすれば連立は欠かせまい。とすれば原発に関する政策合意が必要であり、「卒原発」に何らかの修正なり妥協が必要となるだろうから、この政党が公約したような「卒原発」は絶対に実現不可能な夢物語なのである。何とか八策にしても同じだ。普通に暮らしていれば誰にでもわかる道理であり、選挙権を持った投票者の多くは、この道理を踏まえて投票することになるだろう。政治的なすれっからしや思想的な頓馬がどのように騒ごうとも、これが、それ以上でも、それ以下でもない現実である。
しかし、だからといって今回の総選挙を棄権しようとは思わなかった。正直に告白すると、私はそれほど選挙を得意としていない。一票を必ず投じるようになったのは、それほど遠い昔のことではない。さしずめ次のようなツイートは私のそうした現実が反映されている。
別に選挙を棄権するつもりはないが、間接民主主義を前提とする政治に対する期待もない。政治とは期待した瞬間に裏切られると決まっているのだ。革命という政治も、戦争という政治にしても同じである。絶望しないで済む程度の結果を私は選挙に望んでいる。たいていの選挙結果は、その範囲内に収まる。12月13日
こんな私だから選挙を棄権した有権者を指弾する権利など微塵にもなかろう。くだらない選挙に行かないのもまた権利として担保されるのが民主主義なのではないか。もちろん、普通選挙が実現するにあたって多くの尊い命が失われたことも知っている。中国や北朝鮮といった独裁国家においては選挙が実施されなかったり、仮に実施されても様々な制限が加えられていることからすれば、20歳以上の男女に選挙権が認められていることは、それ自体としては素晴らしいことでもある。しかし、被選挙権を誰でも行使できるかといえば、現状ではそうなっていない。もし私が今回の選挙に立候補しようと思っても、供託金を支払うだけの能力がなく、立候補を断念せざるを得ないのが現状である。すなわち、被選挙権は金持ちの特権であって、主権者であれば誰もが等しく行使できる権利ではないのである。わが国の民主主義はまだまだ途上にあるということである。
私の選挙区は千葉四区である。そう野田佳彦が立候補している選挙区である。私は今回もまた野田には投票しなかった。私の周囲には現役の総理大臣を落選させては恥ずかしいから野田に投票するという連中が多かったが、私は三宅雪子に小選挙区では一票を投じ、比例区では日本未来の党を選択した。結果、三宅は落選。日本未来の党も惨敗であった。そして、予想通り自民党の圧勝。私は昨晩、テレビの選挙特番を見ながら、ツイッターのタイムラインも同時にチェックしていた。
暗い4年間が始まる。脱原発派と護憲派、ジェンダー平等派にとって。教育現場にとってもだ。インフレ、借金、東アジアの緊張、貧困と格差、弱者切り捨て…亡国政権の始まりだ。
これは上野千鶴子のツイートだが、自民党が圧勝したからといって即座に暗い未来像を描いたり、国民のレベルの低さや民度を問題にするツイートが散見された。その多くは「進歩派」「リベラル」と目される人々のツイートであったが、私はフェイスブックに次のように書き込んでおくことにした。
自民党が大勝したことをもって有権者の民度が低いとする「進歩派」「リベラル」系の一切の言説に私は与しないことをここに宣言しておく。
気障な言い方になるやもしれないが、私の生活信条は希望を抱くよりも重要なことは絶望しないことである。
テレビの選挙特番で元首相の菅直人の選挙事務所が映し出された。私はそこに掲げられていた「原発ゼロ」のスローガンに虫酸が走った。この手の「お調子者」が、さもリベラルであるかのように振る舞う「政治」に有権者はNOをつきつけたのである。