総選挙がやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!

石原慎太郎都知事を任期の途中で辞任し、国政に復帰するために立ち上げる新党の名称が「太陽の党」に決まったのが11月13日。野田佳彦自民党安倍晋三との党首討論で「11月16日に解散する」と表明し、実際に野田はその通り衆議院を解散した。あれからまだ2週間も経っていないにもかかわらず、「政局」は目まぐるしく変化している。太陽の党は平沼赳夫率いる「たちあがれ日本」を母胎に結成され、名古屋市長である河村たかしが率いる「減税日本」は「太陽の党」との合流を決断したのが解散前日の11月15日。
しかし、翌16日、「太陽の党」は大阪市長橋下徹が率いる「日本維新の会」に合流することになり、その際、橋下徹の意向により「減税日本」は排除される。「太陽の党」は結党から一週間も経たず、消えてしまったことになる。「日本維新の会」は、それまで渡辺喜美率いる「みんなの党」との間で、恐らく合流を前提に政策協議を進めていたが、この合流は「みんなの党」に不信感を植え付けることになり、今日までのところ「みんなの党」が合流する気配はない。
石原慎太郎が吼え、橋下徹が吼え、安倍晋三が負けじと吼え、政治的マッチョを競い合った。決して「右」を競い合っているとは思えなかった。そもそも石原、橋下が「右」であるものか。もし、このレベルの彼らが「右」であるとしたなら、北一輝も、大川周明も、橘孝三郎も、権藤成卿も草葉の陰で涙していよう。それにしても石原慎太郎と組んでから橋下徹の魅力がグングンと失せて来ている。
もしかすると橋下からすれば石原とのタッグは政治的には致命傷になるのではあるまいか。橋下徹の自由奔放さが石原の「文学」にすっかり消されてしまったと言うべきか。維新が政治勢力として生き残るためには、最終的に自民党との何らかの形での連立しか選択肢としては考えられまい。その際に接着剤となるのが拝み屋政党である。この政党を支える宗教団体は何かといえば「平和」を叫ぶが、彼らの平和主義は偽者なのだろうか。
元総理の安倍晋三もすっかり酔っ払ってしまう。口から勇ましい言葉がポンポン放たれるが、岸信介はあの世で安倍を「このオシャベリめ!」と怒鳴りつけているに違いない。安倍晋三は総理経験者というよりも、ネトウヨの親戚としか私には思えない。恐らく、自民党安倍晋三を総裁に据えてしまったことで総選挙では圧勝というわけにはいかなくなってしまったのではないか。安倍は総理になったつもりで勇ましい発言を繰り返すほど、ひ弱さが透けて見えるという不思議な政治家である。安倍晋三はチョビ髭が似合いそうだ。内容はどうだか知らねども、チョビ髭をつければ、見かけは間違いなく「あの人」である。
新党結成の動きは、民主党離党組にも起こった。それまで参議院会派として存在していた「みどりの風」に民主党を離党した議員が加わることで政党用件を満たすことになり、11月15日にめでたく政党となる。前国民新党代表の亀井静香民主党を離党した元農相の山田正彦が11月19日、「反TPP・脱原発・消費増税凍結を実現する党」を結成する。結党したと思いきや、11月22日には「減税日本」との合流を決め、「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」を結成すると発表した。
この間、マスメディアは意識的にと言わざるを得ないほど、不自然な形で小沢一郎が率いる「国民の生活が第一」の動きを殆んど無視していたが、「国民の生活が第一」と「新党きづな」は11月15日に合同両院議員総会を開き、「新党きづな」の解党と同党代表の内山晃代表を除く衆院議員6人の「国民の生活が第一」入党を決めている。
むろん、いつもの如く「選挙左翼」も原発政策では全原発の即時廃炉という最も過激な「反原発」を掲げて跋扈していた。しかし、私のみならず民衆は既に理解しているのだ。選挙左翼など昔から「詐欺師」にほかならないことを!額に汗して働く現実感なしに偉そうなことばかり言いやがって、あんたら何様のつもりだよと、私などは思ってしまう。
後出しジャンケンに打って出たのは滋賀県知事の嘉田由紀子である。11月27日に「日本未来の党」の結成を表明する。しかも、ここに「国民の生活が第一」「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」が合流し、「みどりの風」の衆議院選挙立候補者も「日本未来の党」から出馬することが決まった。嘉田の言葉を借りるならば「卒原発」を軸にした、「日本維新の会」が第三極であるとするならば、第四極が形成されることになったのである。私の「好み」からすると死刑制度廃止論者の亀井や創造的破壊を繰り返す小沢は好きなタイプの政治家であるが(「日本未来の党」結成の図面を描いたのは小沢だろう)、私は昔から自然を守ろうとか緑を大切にと叫ぶエコロジストが嫌いである。その主張が気持ち悪いのである。もう理屈ではないのだ。大新聞が小沢一郎を生理的に嫌悪するように私もエコロジストを生理的に嫌悪している。まあ、向うも罰金を承知で禁煙地区で煙草を吸う私は嫌悪すべき「敵」であるに違いない。
いずれにせよ、被選挙権は金持ちの特権であって、主権者であれば誰もが等しく行使できる権利ではないことは明白であるし(私が立候補しようと決断しても供託金を支払えるだけの貯えが私にはない!)、そもそも選挙がどうなろうと、私の日々にさしたる変化は訪れない。私だけではあるまい。民衆であれば、誰であろうとそうであろう。仮に何にかの変化が起きたとしても、それはどの政党が天下を取っても起きる変化である。この当たり前の事実に政治家は鈍感だからダメなのである。

…別に鎌倉幕府を作ったからといって、一般庶民が幸福になるとか、そんなことは関係ないわけです。幕府ができたとか、何々政党に勢いがあったりなかったり、そうこうしていることは、前段階の問題であって、庶民一般がそのためにどうよくなったか、という問題はその後にしか来ないのです。
そのうえ、おれたちが政権を取ったら解放されるぞ、というけれども、なにも鎌倉幕府ができたからといって、当時の侍や一般庶民が解放されたというわけではないのです。
また、幕府を作った人間の方も、まず幕府を作ってから庶民の平等について考えよう、なんて日頃考えているわけではない。まず、自分たちの勢力の拡大に最大の焦点を当てているわけです。

吉本隆明の『第二の敗戦期』からの引用である。吉本の『丸山真男論』の次のように書いていることを想起したい。

大衆はそれ自体として生きている。天皇制によってでもなく、理念によってでもなく、それ自体として生きている。それから出発しない大衆のイメージはすべて仮構のイメージとなる。

私たちは「反原発」や「脱原発」の理念によって生きているのでもなければ、ましてや改正しようと否とにかかわらず、憲法という制度によって日々の暮らしを営んでいるのでもない。政治と生活が寸分の違いもなく折り重なることなど現段階の民主主義ではあり得ないのである。
私はこんなことを妄想する。選挙権も、被選挙権も同一年齢で獲得でき、立候補に際しては1円のお金もかからず、選挙権=被選挙権を持った人々が全員が選挙に立候補したらどうなるのだろうか。立候補者は当然、自分に一票を投じるとしたならば、全立候補者が一票しか獲得できず、それでも誰かを選ばなければならないとなったら、くじ引きで当選者を決めることになるはずだ。それは代議制民主主義の到達すべき場所である。民主主義が永遠に抱え込まなければならない課題であるということだ。「右」からすれば「一君万民」の、「左」からすれば「プロレタリアート独裁」の出会う場所でもある。