中国の習近平体制について

11月15日、中国で政権交代が発表された。中国共産党のトップに予想されていた通り、習近平が就いたのである。「msn産経ニュース」(http://sankei.jp.msn.com/)はこう報じている。

中国共産党は第18回党大会の閉幕を受け、第18期中央委員会第1回総会(1中総会)を15日、北京で開催し、胡錦濤氏(69)の後任である新たな総書記(党内序列1位)に習近平国家副主席(59)を選出した。党のトップ交代は10年ぶり。これにより習指導部が正式発足した。

習近平は「太子党」と呼ばれる世襲幹部の一人である。中国共産党朝鮮労働党の「金王朝」を笑えないし、日本もまた中国共産党世襲を笑うことはできまい。小泉純一郎安倍晋三福田康夫麻生太郎鳩山由紀夫と言ってみれば「太子党」ばかりである。日本は中国や北朝鮮のような一党独裁国家ではない民主主義の国家であるにもかかわらず、世襲政治を克服できないでいることを考えあわせれば、世襲政治は「アジア的」なことなのかもしれない。同じようにソビエトが解体してもなお共産党による一党独裁政治が罷り通るのも「アジア的」であるし、日本において欧米のように頻繁に政権交代が起こらなかったのも「アジア的」なのである。「老人」がいつまで経ってもシャシャリ出てくるのも「アジア的」か。
日本では未だに石原慎太郎が威勢が良いし、中国では中国共産党の閉幕式に江沢民が登場し、存在を誇示した。独裁であろうと、民主主義であろうと政治の傾向は中国も日本も「アジア的」という底流においては、意外なことにとてもよく似ているのだ。日本のジャーナリズムは「反中」あっても、「親中」であっても、こうした視点を欠落させているのが私には不満でならない。
むろん、日本と中国に違いもある。独裁か民主かはやはり日本と中国における圧倒的な違いである。そもそも中国の政治は共産主義で、経済は資本主義でという二律背反の国家運営など、少なくともマルクスの構想した共産主義の理念からすればあり得まい。マルクスは「プロレタリアは、たかだか食べる、飲む、産む、住む、装うといった動物的な活動にいてのみ活動の自由を感じるに過ぎない。人間を人間たらしめるところの人間的な活動である労働においては、自己を喪失しているのである」と喝破しているが、中国においてブルジョワジーの役割を果たしているのは、皮肉でも何でもなく中国共産党そのものである。中国の掲げる共産主義なんぞ開発独裁政治を隠蔽するための口実にしか過ぎない。現在においても政治は王朝政治の伝統を嫌というほど引き継ぎ、経済は列強による中国の植民地化を加速させていった諸悪の根源である「租界」を現代的にアレンジして導入しているというのが、私が見立てている中国の国家としての現在の有り様なのである。かつて清朝は欧米列強や日本に行政権や治外法権を与え、自らの国土を「租界」で穴ぼこだらけにしてしまったが、さすがに現在の中国は行政権や治外法権を外国に与えることはしないが、経済活動においては日本や欧米諸国に言わば「租界経済」の恩恵を与えることで近代化を急速に成し遂げたと言って良いだろう。
中国共産党による一党独裁「王朝」は国土を経済的に穴ぼこだらけにしてしまったのである。自力更生なんていうのは毛沢東の妄想としてしか中国の現代史には痕跡を残していないのだ。吉本隆明が『第二の敗戦期』のなかで次のように述べているが、全くその通りだと思う。

…中国がやっていることは、戦争中もそうだったわけですが、ただ相手が違っているというだけで、いまもまったく同じだと思います。つまり、国内のいろいろなところに穴を開けておいて、風通しをよくしておく。そこだけは自由にどこの国であろうとも、自由に使ってくれと。その代わり上がりのいくらかはこっちへよこせという、それだけのことでどんどん穴を開けているのです。
その穴に、いまは結局、各国の産業が入り込んでいるわけです。そして、かろうじて均衡を保っているという情況だといえます。

「上がりのいくらか」を独占的に掌中に収めていったのが、太子党であろうと、団派であろうと、中国共産党の幹部連中であることは言うまでもあるまい。今回、リタイアすることになった胡錦濤温家宝政権が今から10年前の発足当時に「調和のとれた社会の建設」をスローガンに掲げながらも、結局、果たし得なかったのは、政権もまた「上がりのいくらか」を独占的に掌中に収めてきたからではないのだろうか。どの国の独裁も例外なく「政経一致」なのである。その罪は大きいし、「租界経済」の罪は大きいし、何よりも「租界経済」の恩恵を受けることなく、経済的に疎外されてしまった民衆の大多数は放っておけば、政府=党に対する不満を爆発させかねまい。
そこで中国共産党は教育などを利用しながら、意識的に民衆の愛国主義を煽り立て、民衆の不満を愛国主義に解消していったのである。鬱積する民衆の不満の矛先を国内ではなく、国外に向けるよう恣意的に仕掛けたのである。その格好の標的になったのが日本である。中国の支配層からすれば日本の野田政権による尖閣諸島の国有化は、まさに渡りに船であったというべきだろう。中国のトップにどんな親日家が就こうとも、中国が今の中国であり続けるためには愛国主義を手放すことは絶対にできまい。吉本隆明は先に引用した同書において、こうも指摘している。

自分たちではマルクス主義国家だと思っていて、いまわずかに残っている国が、中国の北京政府と北朝鮮などですが、それらはお話しにならないような、ただのナショナリズム、つまり愛国主義でしかないという程度だと思います。

日本もまた中国の開けた穴に無原則的に(中国が民主主義とは程遠い独裁国家であると知りながら、である)吸い込まれていった。その安い労働力と広大な市場に魅力を感じてのことであったが、21世紀を迎えると、遂には中国なしに日本の経済が成立しないほどに日本の産業は、その穴に入り込んでしまった。戦前がそうであったように中国は日本経済の「生命線」となってしまったのである。逆に言えば日本の経済がそこまで深く中国に関与してしまったなればこそ、中国民衆の独裁に対する不満を愛国主義によって解消するための格好の捌け口となってしまったということだ。しかも、厄介なのは日本が中国の愛国主義に引き摺られ、一部の政治家などが安易に「中国化」してしまったことである。中国に対して威勢の良い啖呵を切る政治家や言論人は、それが自らの「中国化」であることに全く無自覚なようである。これもまた「アジア的」ということかもしれない。