アメリカの民主主義について

アメリカで大統領選挙が行われ、オバマ大統領が再選を果たした。その際、テレビを見ながら考えたことを書き残しておこうと思う。
欧米の帝国主義に侵食されたアジアを解放するという高邁な理想を持って戦われたはずの大東亜戦争に敗北した日本はアメリカに占領されることになった。サンフランシスコ講和条約の締結によって「独立」するまで、敗戦直後の日本に最も偉い人として君臨し、日本国憲法に象徴される戦後民主主義を日本に押しつけたたマッカーサー大元帥は、1951年、アメリカの上院軍事外交委員会で、日本の民主主義について、アメリカが40代の大人であるのに対して日本は12歳の少年だと発言した。日本はアメリカから欧米流の民主主義をまだまだ学ばなければならないとマッカーサー大元帥は考えていたのだろう。
確かにアメリカは民主主義を価値観とした国家である。アメリカは「人工国家」であるがゆえに歴史や宗教、民族を価値観に据えて「国民国家」を形成する条件が何ひとつとしてなかったために民主主義を価値観にするしかなかった。そんなアメリカの民主主義の「質」を最も象徴しているのがアメリカ合衆国憲法の修正1条から修正10条までの権利章典である。修正第一条には、こうある。

合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない。

アメリカは国家として特定の宗教に加担することはなく、また市民がどんな宗教を信じても良いし、言論、報道の自由は国家から制限を受けることはないし、直接民主主義の権利もここで保証されている。義務や責任といった言葉は一切使われることがなく、「公」よりも、明らかに「個人」を優先させて「権利」を位置づけている。また修正9条においては、「個人」の「権利」は無制限に保障されている。どこまでも「個人」の「自由」に忠実なのである。

この憲法に一定の権利を列挙したことを根拠に、人民の保有する他の諸権利を否定し、または軽視したものと解釈してはならない。

こうしたアメリカの憲法基本的人権にかかわる記述からすると、自由民主党が発表した憲法改正草案の「上から目線」で「公」やら「秩序」、「責任」に「義務」といった言葉を駆使しなければ「権利」を保障できないような「間怠るっこしい」は一切ない。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。

私などからすると現行の日本国憲法でさえ、「権利章典」として優れているとも、また理想的であるとも思えない。「憲法を守ろう」という「選挙左翼」の主張に私は冷ややかにならざるを得ない。次のような修正第二条を見よ!

規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。

この条文では何と「人民の武装権」までもアメリカは「権利」として認めているのだ。もちろん、その前提に「自由な国家」の安全にとってにとって民兵(パルチザン)が必要だという認識が掲げられているわけだが、もしアメリカが「自由な国家」でなくなってしまったならば、「人民の武装権」は「人民の抵抗権」にいとも容易に転化することであろう。アメリカという国家が保障する「自由」に自信がなければ、このような条文など決して書き込めないに違いない。もちろん、この修正第2条があることによって、銃が野放し状態にあり、悲惨な犯罪が後を絶たないのも事実であるが、日本には「核」武装を説く論客はおれども、「個人」の武装を合法化しようという論客も、また政党も皆無である。確かに過去を遡れば、次のように書いた政治学者が一人だけいた。

とにかく豊臣秀吉の有名な刀狩り以来、連綿として日本の人民ほど自己武装権を文字通り徹底的に剥奪されて来た国民も珍しい。私達は権力に対しても、また街頭の暴力に対してもいわば年中ホールドアップを続けているようなものである。「拳銃を…」

こう書いたのは、驚くべきことに丸山真男である。丸山は「どうだろう、ここで一つ思いきって、全国の各世帯にせめてピストルを1挺ずつ配給して、世帯主の責任において管理することにしたら…」とまで書いているのである。「虚妄の戦後民主主義」の守護神としての覚悟が透けて見える物言いである。しかし、現在の平和ボケした日本では右から中道を経て左に至るまで、国家が武器を独占することを前提にしてしか民主主義を考えていないのである。シルベスター・スタローンの『ランボー』やクリント・イーストウッドの『許されざる者』といった映画作品はアメリカ民主主義の申し子にほかならない。
確かにアメリカの憲法を読む限り、アメリカの民主主義は大人であると私は思う。しかし、それでも私はアメリカの民主主義を疑わざるを得ない。アメリカを動かしているのは民主主義ではなく、軍国主義ではないのだろうか。ベトナム戦争湾岸戦争イラク戦争アフガニスタン戦争とアメリカは常に戦争の当事者であったが、そのような国家を軍国主義と呼ばずして何と呼ぼうか。各世帯に一丁の銃の配給を提案した丸山真男は、その段階でアメリカの民主主義を確信していたのだろうが、私は小学生のひとりとしてアメリカに民主主義はあるのかと今問いかけたいのである。アイゼンハワー大統領は1961年1月、退任に際して「軍産複合体」の存在を警告している。

私たちは巨大な規模の恒常的な軍事産業を創設せざるを得ませんでした.これに加えて,350万人の男女が防衛部門に直接雇用されています.私たちは,アメリカのすべての会社の純収入よりも多いお金を毎年軍事に費やします.
莫大な軍備と巨大な軍需産業との結びつきと言う事態はアメリカの歴史において新しい経験です.その全体的な影響は--経済的,政治的,そして精神的な面においてさえ--すべての都市,すべての州議会議事堂,そして連邦政府のすべてのオフィスで感じ取られます.私たちは,この事業を進めることが緊急に必要であることを認識しています.しかし,私たちは,このことが持つ深刻な将来的影響について理解し損なってはなりません.私たちの労苦,資源,そして日々の糧,これらすべてが関わるのです.私たちの社会の構造そのものも然りです.
我々は,政府の委員会等において,それが意図されたものであろうとなかろうと,軍産複合体による不当な影響力の獲得を排除しなければなりません.

皮肉なことであるが「人民の武装権」を認めるほど進んでいたがゆえにアメリカは「軍産複合体」の脅威に曝されてしまったと言って良いだろう。アイゼンハワー大統領の警告にもかかわらず、アメリカは「莫大な軍備と巨大な軍需産業との結びつき」をベトナム戦争を通じて加速させる。民主主義が「軍産複合体」に絡めとられていってしまったのである。軍事関連産業が国家予算に過度に依存するようになり、軍と産業の相補的な癒着を常態化させてしまうという軍国主義を成立させてしまうのだ。戦争をしないことには、武器を国内外で消費しないことには立ち行かない国家にアメリカは変貌を遂げていった。アメリカの民主主義は「軍産複合体」の経済に丸ごと乗っかってしまう軍国主義に退化していったということである。確かにカーター大統領には「アメリカの軍国主義化された過去を壊す決意」があったらしいが、それゆえに大統領として再選を果たすことができなかった。アメリカの軍国主義を完成させたのは、軍拡競争によってソビエトを解体に導き、東西冷戦に終止符を打ったレーガン大統領であろう。そうしたアメリカの軍国主義を象徴するのがクリントン大統領を挟んで父子二代のブッシュ大統領は「軍産複合体」そのものの政権であったことはよく知られている。ブッシュ家は軍事産業を生業としているのだ。
「核なき世界」を掲げ、ノーベル平和賞まで獲得したオバマ大統領とて、「軍産複合体」から決して自由でないことは、大統領に再選するに際して、これまでの実績としてウサーマ・ビン・ラーディンに対する国家テロに胸を張ったことからも明らかである。アメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定したアメリカは捕らえて裁判にかけることなく、アメリカから遠く離れたパキスタンの地でパキスタン政府に事前に通告することなしに(パキスタンの主権を踏みにじって)軍事活動を展開し、ウサーマ・ビン・ラーディンを殺害したのである。しかも、オバマ大統領をはじめ、政権中枢を担う人々は、その模様の一部始終を見守っていたのである。果たして、こうした光景を民主主義と呼んで良いものなのだろうか。私には、そう思えないのである。戦争裁判すら開かれなかったことに私は異和感を禁じえないのである。少なくともアメリカの民主主義は軍国主義に陵辱されつづけているのだ。
日本はアメリカを民主主義の教師にしてきたわけだが、アメリカに民主主義を学びつづけることは、日本もまたアメリカ同様に軍国主義に絡めとられていく未来を示唆しているのではないだろうか。むろん、そうならない選択肢も日本には開かれている。何しろ民主主義においてはまだまだ中学生程度のものであろう。アメリカのような大人は成長できず老いるだけだが、子どもはまだまだ成長できる余地が残されているということである。