全国大学同和教育研究協議会秋季企画「京都の被差別民と芸能およびキリシタン迫害」のフィールドワークに参加して

京都に行って来た。11月10日、11日の一泊二日。京都は紅葉の季節だった。東福寺は朝から人でごった返していた。

集合時間は午後1時だったが、東京を早めに出立し、東福寺に立ち寄ってから龍谷大学に向かった。全国大学同和教育研究協議会による秋季企画「京都の被差別民とキリシタン迫害」に参加するためだ。龍谷大学では午後1時から午後5時まで公開シンポジウムが行われた。翌11日には公開シンポジウムを踏まえてのフィールドワークが行われた。ここではフィールドワークの内容を紹介することにしたい。しかし、11日の京都は朝から雨が降っていた。京都国立博物館前に集合した私たちは博物館の北隣に位置する豊国神社に向かった。豊国神社は豊臣秀吉を祀る神社である。


豊国神社は方広寺の鎮守として慶長4年(1598)に完成しているが、豊臣家の滅亡により、徳川幕府の命で社殿は破壊され荒廃してしまう。豊国神社が再興されるのは徳川幕府が滅んでからのことである。そう1868年、明治元年になってからのことである。豊臣秀吉明治維新によって日本の「正史」に「復権」を果たすのである。その唐門は、南禅寺金地院から移築したもので伏見城の遺構とされている。
方広寺といえば、やはり「あの鐘」である。

この鐘の裏側を覗くと、あった、あった。読めますか?「国家安康」と。

慶長元年(1596)地震で大仏殿が大破したため豊臣秀頼方広寺を再建した際の大鐘だが、そこに刻まれた銘文に徳川家康は難癖をつける。また、家康にとって秀頼が道徳的に善か悪であるかは関係なく、美的に美しいか醜いかも関係ない。家康にとって秀頼は敵なのである。敵である以上、道徳的に悪であらねばならず、美的に醜悪であらねばならなかった。そのために鐘の裏側に刻まれた銘文を利用する。「国家安泰」とは「家康」を「安」の字によって切断し、家康の心身両断を企図したものではないかと。徳川家康は「政治」とは「言葉」であることを知り尽くしていたのだろう。「言葉」によって戦争は生まれるのだ。大阪夏の陣をもって豊臣家は滅亡する。カール・シュミットの『政治的なものの概念』を踏まえながら解説してみた。
方広寺の正面通を西へ100メートルの左手に耳塚(鼻塚)はある。高さ約7メートルの墳丘で、上に五輪の石塔が立つ。

この柵を開けることができず、なかには入れなかった。カメラで五輪塔をズームしてみよう。

豊臣秀吉は2回にもわたって朝鮮侵略を試みている。朝鮮出兵と言われているが、これは秀吉の誇大妄想が引き起こした侵略であろう。だから秀吉が死ぬと即座に撤退する。文禄の役は文禄元年(1592)、慶長の役は慶長2年(1597)だが、慶長の役に際して軍功の証として首のかわりに鼻を削ぎ落とし持ち帰れという命令が下り、腐らないように塩漬けにされた鼻がこの場所に埋められる。
2009年8月13日、ここ耳塚で韓国の「民族の魂を生かす国民運動本部」(理事長:ハン・ヤンウォン)が慰霊祭を行った。これについて韓国の中央日報は「京都耳塚で行われた慰霊祭」として次のような記事を2009年8月20日付で書いている。

「民族の魂を生かす国民運動本部」は耳塚を故国に移す案も待ちこがれる。
しかし「耳塚」は現在、日本の史跡地に指定されてある。豊臣秀吉と直接関連のある京都の文化財と見なすからだ。
「民族の魂を生かす国民運動本部」は今年5月、東京の文化庁を訪問し、「耳塚」の韓国への移転を打診したこともある。ハン理事長は「壬辰倭乱文禄の役)の当時、ウルドルモク(鳴梁海峽)での戦闘で戦没した倭(日本)軍が海岸に流れてきた。そのとき、朝鮮(チョソン、1392−1910年)の民は倭軍の遺体を収拾し、珍島(チンド)に埋めた。いまでも珍島におよそ100基の墓地がある。当時、同地域に出廷した倭軍の子孫が最近も訪れ、法事を行う。珍島にある倭軍の墓地と京都の耳塚を交換する案を提案した」と説明した。
これに対し、日本の文化庁は「研究するに値する提案だ。しかし耳塚は文化財に指定されている。国会で文化財関連法規を変えない限り、耳塚の移転は難しい」とし、原論的な答弁を出した。この日の慰霊祭には京都市文化財保護課長が出席、耳塚に献花した。日本政府当局者が「耳塚の慰霊祭」に出席したのは初めてだ。それだけ日本側も気にかけている証と言える。「民族の魂を生かす国民運動本部」は毎年京都を訪ね「耳塚慰霊祭」を開く計画だ。

京都市文化財保護課長」を「日本政府当局者」にしてしまうところに韓国のナショナリズムの激しさがうかがわれるが、私は韓国が耳塚の移転を打診していたことなど知らなかった。日本のマスメディアが報道しなかったか、報道しても小さな扱いであったからなのだろう。ちなみに韓国のナショナリズムの激しさは「歴史」を奪われて来たがゆえの「激しさ」である。日本に併合されることで「歴史」を奪われ、日本から独立した後も待っていたのは分断と軍事独裁政権であり、ここでも「歴史」は奪われることになる。韓国が「歴史」を奪還しはじめたのは、独裁政権に終止符を打ってからのことだろう。

耳塚を囲む柵は大正4年(1915)5月に建立されたものだが、歌舞伎をはじめとする芸能に携わる人々の寄付によってである。その発起人となったのが京都の伏見で「勇山一家」を率いていた侠客・小畑岩次郎である。
何故、芸能に携わる人々がそれまで荒れ果てていた耳塚の再興にかかわったかといえば、『絵本太功記』が歌舞伎や浄瑠璃の人気作品であったからだ。「太閤」と書くべきところを「太功」と書くのは徳川幕府を憚ってのことである。「政治」は豊臣秀吉を「正史」から抹殺したが、民衆は秀吉の「成り上がり」の人生を支持しつづけてきたということである。民衆は、いつの時代であっても、それが叶わぬと知りながら自分も秀吉になることを夢見るのである。そうした心情を「政治」は利用する。日本が韓国を併合してしまうのが、明治43年(1910)であったことを踏まえるならば、そうした「政治」の質は自ずと透けて来よう。民衆から絶大なる人気を獲得している豊臣秀吉を朝鮮進出の先駆者として捉えることで、朝鮮半島併合の正統化を図ったのである。日本帝国主義もまた豊臣秀吉に寄り添ったのである。このようにして民衆は「政治」に、ナショナリズムに、帝国主義に動員されていくのである。これは何も日本に限っての現象ではあるまい。
侠客・小畑岩次郎は耳塚ばかりではなく、烏寺には石碑を寄進している。

雨はやむどころか、雨足は強くなっていた。甘春堂本店の斜め向かいの歩道にある石碑である。ここいらは昔の六条河原にあたるところのようだ。「元和キリシタン殉教の地」と書かれている。こうしたフィールドワークに参加しなければ甘春堂本店に立ち寄っても、この石碑を前にして佇むことはまずあるまい。元和5年(1619)10月6日に52名のキリスト教徒が、52名の信者たちは、牛車に乗せられて、都の大路を引き回されたうえ、ここで十字架に架けられ火刑に処せられたのである。江戸時代初期の元和年間(1615〜1624)、キリシタンの禁教政策が強化され、殉教が相次いだ。宗教的にいえば殉教だが、要するにキリスト教徒の虐殺が京都を皮切りに江戸、長崎で行われたのである。京都では11名の女性のうち一人がみごもっていたため53名の殉教=虐殺であったとも言われている。驚くのはまだ早い。15歳以下の少年11人もそこには含まれているのだ。京都はキリスト教の歴史が深く、南蛮寺と呼ばれた教会も多数あり、「だいうす町」という地名も近世にはあった。「だいうす」とは神を意味するデウスである。蛸薬師通室町西入北側には次のような石碑がある。

京都における最初の南蛮寺がここに建てられていた。
歌舞伎の創始者とされる出雲阿国も水晶のロザリオと十字架を胸に架けている絵が残されているが、京都の四条大橋東詰に立つ銅像阿国にはロザリオも十字架もなかった。

出雲阿国は生没年不詳だが、天正のころ出雲大社の巫女と称して、京都の河原で歌い踊り始め、やがて念仏踊りを始め、念仏踊りに簡単な所作を加えて阿国歌舞伎へと発展させていった。芸能は宗教を母体にして生まれる。誤解を恐れずにいえば、人間にとって宗教も、芸能も「快楽」や「歓喜」を得る手段なのである。その意味で宗教も、芸能もエロティシズムと深く関りあっているはずだ。エロティシズムとは死に至るまでの生の賛歌だと喝破するバタイユを私はこの文脈で捉えたい。信仰とは「歓喜」や「快楽」を確信する官能であり、マゾヒズムであり、サディズムなのである。芸能のドラマトゥルギーは、そこを根拠にする。阿国が率いた一座が話題になると、これを模倣したパフォーマンスが遊女によって繰り広げられる。その「猥褻」ぶりによって徳川幕府は遊女歌舞伎を禁止する。いつの時代も権力は民衆の心を捉えた「猥褻」を嫉妬する。嫉妬するから禁じるのである。宗教弾圧も同じ構造が見て取れる。権力に取り込まれない限り、宗教もまた権力に嫉妬される。宗教は権力に取り込まれない限り、権力にとって「反道徳」なのである、「猥褻」なのである。京都の街に響き渡った「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華教」も「アーメン」も民衆の喜怒哀楽がこもった「善がり」にほかならなかった。人は「喜楽」のみに善がるのではない。「怒哀」においてもまた善がるのだ。南座の西側に「阿国歌舞伎発祥地」の碑がある。

南座四条通りにある歌舞伎劇場である。

創設は元和年間と言われている。かつては7座あったというが、幕末には南座と北座の2座だけとなり、明治26年(1893)に北座が廃止されてから南座だけとなり、現在に至っている。松竹の傘下に収まったのは明治39年(1906)。南座の次に向かったのが中京区にある六角堂である。


六角堂は聖徳太子が建立したと伝えられている。本尊は救世観音。寺号は紫雲山頂法寺。天台宗の寺院である。古くから観音霊場として信仰されていた。中世後期、応仁の乱を経てから、経済力を高めつつあった下京町衆の町堂の役割を果たす。また、六角堂は洛中「非人」の救済の場でもあり、たまり場であったし、飢饉における貧民救済もここで行われた。民衆にとって「広場」の役割を果たしていたのである。華道の池坊は六角堂頂法寺の坊の名である。六角堂には親鸞銅像が立っている。歴史は鎌倉時代に遡る。

比叡山で修行していた親鸞が山を下り、真っ先に向かったのが六角堂であった。何故、六角堂であったのか私にはわからないが、ここで親鸞は100日間にわたって参篭し、それから法然のもとに向かう。親鸞にとって決定的であったのは参篭して95日目に夢告を得たことである。救世観音=聖徳太子が立派な僧の姿を夢に現れた聖徳太子親鸞に次のように告げたのである。
行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽
私の妄想を述べておくことにしよう。まず私流に聖徳太子のこの言を理解するならば、「親鸞よ、これまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、私が美しい女となって性交の相手をつとめよう。そしてお前の一生を荘厳なものとし、臨終に導き、極楽に生まれさせよう」ということになる。親鸞は、この夢告を根拠に妻帯することになるのだが下世話な私からするならば、親鸞は女犯の夢告とは夢精をともなうものであったように思えてならない。その「快楽」を聖徳太子=救世観音によって正当化しているのではないだろうか。人間にとって当たり前の欲望を正面から認めずして人間を救うことなどできはしないという「真理」を親鸞は六角堂で獲得したのである。親鸞の「悪人正機説」は人間の欲望を肯定している点において革命的ではなかったのか。民衆にとって「南無阿弥陀仏」は自らの欲望を解放する媚薬の機能も果たしていたのではないか。念仏踊りから阿国歌舞伎へという必然性がそこにある。


堀川通の東側、蛸薬師通に面して立つ空也堂である。紫雲山光勝寺極楽院が正式名称である。空也堂という通称の通り、天慶元年(938年)に空也が開創したと言われている。空也尾張国分寺で出家し、各地を遊行するとともに道の整備や架橋、井戸を掘りなどの社会事業を行うとともに、野ざらしの死骸を集めて葬ったとされる。空也阿弥陀聖、市聖と称した。念仏を唱えながら、市井の只中で生きたということだろう。その遺風を継承した宗教者の一派が存在したことは間違いあるまい。彼らもまた空也にならって根へ、根へ、花の咲かぬところへ(谷川雁を踏まえて書いてみた)降りてていって布教につとめたに違いない。そうした「聖」の周辺に念仏を信仰する人々が集まっていった。空也堂を本拠地とする、中世後期には「鉢叩き」と称されるようになる有髪の人々がそうだ。鹿角杖にぶら下げた瓢箪(ひさご、はち)を竹の枝の撥で叩くことから「鉢叩き」と呼ばれ、茶筅を売りながら生計を立てていた。
江戸時代になると空也堂は念仏行事である「六斎念仏講中」に免許を与えていた。毎年、11月の第二日曜日には空也僧による勇躍念仏や六斎念仏が踊られる。今日がその日だ。


これが勇躍念仏。

これが六斎念仏。写真が下手だなあ、とほほ。前日のシンポジウムで配られた沖浦和光の文章から次の件を引用しておこう。

「タタク」ことによって天地の精霊の目を覚ましその加護を祈る。これは古くから巫覡(シャーマン)に連なる祈祷技術である。

江戸時代の空也堂は貞享元年(1684)に成立した『雍州府志』に次のように書かれている。

此の院内の一老を上人と称し、魚肉を食わず、妻子を携えず、髪を剃り、衣を著す。其の余十八家の者は、髪を剃らず、妻子を携え、常に茶筅(ちゃせん)を製し市朝で売る

一人の上人を中心に18軒の「鉢叩き」がいたことがわかる。
次に向かったのが京都四条病院。

この病院の救急入口の横に「二十六聖人発祥の地」の銘板がある。これだ。

慶長元年(1596年)豊臣秀吉は日本人キリシタンの迫害を命じた。京都奉行をつとめていた石田三成は、フランシスコ修道会の神父、5人のフランシスコ会士、16人(18人とも言われる)の日本人イエズス会士、信徒を捕らえ、一条の辻のある寺院で彼らの左の耳鼻を削いだ。その後、8台の牛車に乗せ、市中引き回しにしたうえ、長崎へ800kmの道のりを徒歩で連行した。その途上で2名が新たに入信してしまう。ここで入信することは一緒に処刑されることを意味するはず。それでも入信してしまうほど、キリスト教は2人にとって魅力に満ちていたということなのだろう。26人は長崎・西坂の丘で十字架に架けられ、槍により処刑された。
最後に向かったのが「柳原銀行記念資料館」。夕闇が迫っていた。

『京都人権歴史紀行』(人文書院)によれば京都では行き止まりの場所を「どんつき」と言うそうだが、「河原町通を下ってきたバスが塩小路通と出会って京都駅の方へ大きくカーブをきるところは、そこから河原町通が急にせまくなるところから、どんつきの愛称で呼ばれて」いたという。その交差点の南西にこの明治後期に建てられた洋風木造建築物はあった。
柳原銀行は昭和2年の柳原町長をつとめた明石民蔵ら地元有志によって明治32年(1899)、「どんつき」の地に設立された。被差別部落内の産業振興や教育の向上に多大な貢献を果たした銀行として知られている。被差別部落の人たちによって経済活動の自力自闘の拠点として立ち上げられたされた全国でも珍しい銀行なのである。銀行としては昭和2年(1927)の金融恐慌で破産してしまうが、その後も建物は商店や借家として使用された。
昭和61年(1986)、道路拡張により、取り壊されそうになったが、平成6年(1994)に京都市内に現存する唯一の木造銀行建築としての価値が京都市登録文化財として認められ、移築・復元されることが決まり、平成9年に柳原銀行記念資料館として一般に公開されることになった。
というわけで雨の中を一日中、歩き回ったフィールドワークを終えた。