オウムの闇は宗教ならではの闇ではないのか?

「走る爆弾娘」の異名で知られるオウム真理教元信者の菊池直子容疑者が逮捕された。容疑は殺人と殺人未遂。毎日新聞は6月6日付社説「菊地容疑者逮捕 オウムの闇に迫りたい」のなかで次のように書いている。

菊地容疑者の逮捕により、新たな角度で事件の闇に光が当てられる可能性が出てきたとも言える。事件の真相に迫るよう警視庁は捜査を尽くしてもらいたい。

「事件の闇」という表現に私は引っかかりを禁じえない。事件に闇などあったのだろうか。坂本弁護士一家殺害事件を起こし、何名もの信者や元信者のリンチ殺人事件を起こし、松本サリン事件や地下鉄サリン事件で多数の死傷者を出したという犯罪にむしろ一点の曇りもないと言うべきだろう。
しかし、だからといってオウム真理教を凶悪事件を次々に引き起こしたテロ集団と単純に切り捨ててはなるまい。オウム真理教を犯罪集団なり、テロ集団として切り捨てるのは簡単だが、光を当てるべきは「オウム真理教という宗教の闇」であり、オウム真理教にとどまらない「宗教の闇」であるはずだ。
オウム真理教をあんなのは宗教ではない、宗教の名を借りた殺人集団に過ぎないとする、オウム真理教に対するありがちな認識は逆立しているのだ。オウム真理教は宗教として完成されていたからこそ弁護士一家や信者や元信者の殺害だけではおさまらず、松本サリン事件や地下鉄サリン事件のようなテロ犯罪も引き起こしてしまったと考えるべきなのだ。
思想が大衆をとらえるやいなや物質的な力となると言ったのはマルクスだが、宗教にしても同じである。宗教もまた大衆をとらえるやいなや物質的な力となり得るのである。
しかも、オウム真理教の場合、その暴力はオウム真理教とは何の関わりもない大衆に無差別に向けられたのである。宗教として現実の不幸にたいする抗議を孕んでいたオウム真理教そのものが現実的悲惨を実践してしまったのである。信者たちにとってオウム真理教は紛れもなくアヘンに他ならなかったのである。
親鸞浄土真宗の開祖として知られているが、親鸞の宗教(思想)が弟子の唯円によって書きとめられた『歎異抄』に次のような一節があることは良く知られている。

またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてん や、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあ らず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、 悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。

親鸞が「人を千人殺してくれないか。そうすれば往生は約束される」と言ったのに対して、弟子の唯円は「自分のようなものには一人として殺せない」と応じているが、もし唯円が「わかりました。千人を殺して来ます」と答えたら果たして親鸞唯円の殺人を止めたであろうか。
殺せないと答えた唯円に対して「どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときには、すぐに殺すことができるはずだ」と答えた親鸞である。唯円の千人殺しに対して平然と思い通りに殺すことのできる縁があったから殺したのだと言い放つ可能性はゼロではあるまい。殺すつもりがなくても、百人あるいは千人を殺すこともあるだろうと言ってのけている親鸞である。
もちろん、親鸞唯円が一人として殺人など犯せない人間であることを了解していたから、こうした問いを発したのだろう。いずれにしても、オウム真理教は、身体や精神を追い込んでゆく独自の修行を通じて、どんなことでも自分の思い通りになると考えた宗教ではなかったのだろうか。オウム真理教においては、どんなことでも自分の思い通りになると考えられるようになることが「解脱」であったように思えてならないのである。
オウム真理教は宗教以外の何ものでもないという当たり前の事実から逃げてはなるまい。しかも仏教を母胎にして生まれた宗教である。オウム真理教は宗教にとって異物では断じてないのである。