「性器を食す世紀のイベント」について考える

ネットで『MSN産経ニュース』をチェックしていたら、サンケイスポーツで報じた次のような記事が目に入った。本当かよ!と思った。

“人体食べるパーティ”主催者が下半身の一部切除か 杉並区調査
2012.6.2 11:11 (1/2ページ)[事件・トラブル]
 東京都杉並区のライブハウスで、「人体の一部を食べる」と称したイベントが5月に開かれ、杉並区が食品衛生法に抵触する可能性があるとして調査を始めたことが1日、分かった。(サンケイスポーツ

このイベントの名称は「Ham Cybele〜世紀喫食会〜」と言い、「性器を食す世紀のイベント」を謳っていた。5月13日(日曜日)の午後六時半から阿佐ヶ谷ロフトAで開催された。入場料は前売が4,000円、当日が4,500円。「性器」を食する権利を手に入れることのできるVIPシートは2万円、5人がこの権利を得て、同意書にサインしたうえで実際に食べたらしい。会場には約70人が集まったという。
ツイッターに次のような文章がこのイベントの主役たる「エイチシー」によって4月8日に投稿されたことが総ての発端であったと言って良いだろう。

拡散希望】私の男性器(完全陰茎+睾丸+陰嚢)の料理を10万円で提供します。日本人/摘出時22才/性病検査済/機能正常状態で摘出/女性ホルモン投与無し/最大勃起時16.1cm/先着一名,複数人の共同での注文は可/調理法、場所相談応/その他DMリプライEメール等でご質問ご連絡下さい

ここでもツイッターというソーシャルメディアが動員のメディアであることが証明されたわけだが、『MSN産経ニュース』にあった「昭和初期の『阿部定事件』を想起させる猟奇的なイベント」という表現は間違いだろう。阿部定が切断したのは愛する男のペニスであって、自身の性器ではない。性器を切断するという行為は同じでも、その意味はまるで違う。「阿部定事件」は大島渚流に言えば2人だけの「官能の帝国」における事件として閉じられており、自分の意志で切断した自分の性器を他者に食べさせるのみならず、その瞬間を更なる他者に見せてしまうというような「開かれ方」はしていない。こうも言える。ソーシャルメディアが出現したことで、それまてであれば当事者の世界に閉じられるしかなかった事象でも、外部に開いてしまうことが可能になってしまったのだと。そこにはソーシャルメディアの可能性と危険性がともに同居している。
私がこのイベントの存在を事前に知っていて参加するかと問われれば参加しない。もっとも、だからといって私はイベントの参加者を道学者を気取って指弾する気もない。日本の江戸時代のことだが、民衆は磔でもあろうものならどっと押しかけイベントとして堪能したらしいから、そういう趣味は今もあるのだろう。
これも『MSN産経ニュース』に書かれていたことだが、杉並区が調査に乗り出したのは食品衛生法に抵触する可能性があるからということらしい。現行の法律では、こうした事態が起こることなど想定されていないのだろう。刑法に触れないということからすれば、「事件」ではあっても「犯罪」には当たらないということなのかもしれない。しかし、このイベントというか、「事件」の意味については考えておく必要があるだろうと私は思った。カニバリズムという言葉では片付けられない「性」の本質にかかわる重要な問題を孕んでいると思ったからだ。
「エイチシー」の年齢は20代前半、職業は「絵描き」であるそうだ。
多くの芸術家がそうであるように芸術家の「作品」は他者との関係を築くことなしに評価を得ることはできない。絶賛であれ、酷評であれ、他者の評価がなければ「作品」は社会や歴史から無視されるか、抹消されるかであろう。「エイチシー」のツイートによればイベントは「エイチシー」自身が企画したものではないそうだ。しかし、イベント内容の総てが本人の意向に沿うものではなかったとしても、「エイチシー」は自分自身の「作品」との関係性において、今回のイベントを企画したことは間違いない。そういう意味では自らが創造すべき「作品」のために自分自身の切断した「性器」を提供したのである。「エイチシー」はイベントのなかで、性器を病院で切断する数ヶ月前に自宅で胸も溶かしたというし、今後、永久脱毛をして、全身に真っ白いタトゥーを入れることを考えていると語っているようだ。自分をキャンバスにするイメージなのだという。しかし、自分の性器を切断するにあたって逡巡はなかったのだろうか。「エイチシー」のタイムラインを読んでいるとわかるのだが、逡巡はなかったようだ。むしろ、タブーを侵犯してでも尚実現しようという強い意志に突き動かされていると言ってよいだろう。
ここからは私の想像に過ぎないことを断っておく。「エイチシー」はドゥルース+ガタリが主張している「n個の性」を実践したとも考えられなくもない。ドゥルース+ガタリに従えば総てが「性」なのである。逆に男性であるとか、女性であるとかいう存在は「n個の性」を盗まれてしまっていることになる。「エイチシー」が会場で語ったとされる自分をキャンバスにするというイメージは「n個の性」を奪還するという意味を孕んでいるのかもしれない。しかし、ドゥルース+ガタリが「n個の性」というとき、明らかに「社会」を意識し、「ユートピア社会」のイメージに他ならない。所詮、実現不可能性において「n個の性」は語られているとしか私には思えないのである。もし、それが個人の実践的な課題として捉えられる錯誤が生じるとすれば、家族が解体の危機に瀕しているという社会状況を示唆しているのではないだろうか。また、そうした社会状況は、とはいえ家族を解体しきれず、未だに根強く家族意識を残しているからこそ生じるのであって、逆に言えば社会はそう簡単に「n個の性」を実現できないとも考えて良いのではないかと私は思っている。「家族帝国主義」という言葉が一部の若者たちにもてはやされてから40年以上が経っていることを想起しても良いだろう。
こんなことも考えた。この一件について東浩紀が「mjd! → “人体食べるパーティ”主催者が下半身の一部切除か 杉並区調査 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120602/crm12060211180004-n1.htm」とツイートしていたこともあって、ジャック・デリダが『エクリチュールと差異』のなかで次のように書いていることを思い出した。

真の人間はセックスをもたない、というのも、彼はみずからのセックスであらねばならないからである。セックスが器官となるやいなや、それは私にとって見知らぬものとなり、かくして、脹らんでそれ自身に充ちた対象のもつ尊大な自律性を得て、私を見捨てる。切り離された対象となったセックスのこの腫脹は、一種の去勢である。

デリダは要するに男性器が勃起するのは去勢であり、男性器という器官に性が集約されると、人間は人間的な性から疎外されることになるので、自分自身こそがセックスであると言っている。男性の多くは「脹らんでそれ自身に充ちた対象のもつ尊大な自律性を得て、私を見捨て」られる経験をソープランドなどでしているわけである。デリダが言うところの「器官」を「エイチシー」がそうしたように切断してしまえば、「一種の去勢」から自由になる。とすれば、「エイチシー」は男性器を物理的に切り離すことで精神的に切り離されていた「性」を永久に取り戻したのだということもできるのかもしれない。しかし、それで本当に人間的な「性」を取り戻したことになるのだろうか。むしろ、それは「性」を取り戻したのではなく、人工的、反自然的な「性」を実現してしまったことになるのではないか。そうだとすれば、その人間には別の人間的な疎外が待ち受けるということになるだろう。人間はそう簡単に「自然」を克服することはできないのだ。人間は結局のところ人間から自由になれないということである。点として「例外」であることはあり得ても、線を構成しないだろうし、面に発展することもあるまい。